自ら売り込んで日本第一号に。ゴールドマン出身の金融マンが燃やし続けた「ものづくり」への執念
2020/11/05
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海外企業の日本第一号社員経験者に光を当てる連載「『日本第一号』たちの未来志向」。第8回の井戸義経さんは、中国電子機器メーカー・Anker(アンカー)の日本第一号だ。当初、アンカーとは全くつながりがなかったが、自らのビジネスプランを売り込むためのコールドコールが同社の日本事業立ち上げに結び付いたという。その裏側には、金融業界に身を置きながらも、燃やし続けた「ものづくり」への執念があった。
カントリーマネージャーという“職業”の認知が徐々に進む中、彼のように自ら海外企業にアプローチする手法を採る人も増えるかもしれない。【丸山紀一朗】
1. 「いつかは実業に」。金融業界からの最適な行き方を模索していた
2. 海外ブランドと日本をつなぐ「ミニ商社」構想。複数の企業に自らアプローチ
3. 「断られても失うものはない」。スタートは公開窓口へのメール
4. 専門外のことも何でもやる。会社の成長と自分の変化を楽しめる人が向いている
「いつかは実業に」。金融業界からの最適な行き方を模索していた
――前職までの約10年間は金融の世界にいたとのこと。アンカーというメーカーの日本第一号というキャリアは、そこからは遠く感じます。
井戸:私の中ではつながっているので、順を追って話しますね。
原点は大学のときです。「ものづくり経営学」で有名な藤本隆宏先生のゼミに入りました。ものづくりを行う会社について、どのように組織を構築し、どういった戦略で営んでいくべきかという経営学を学んでいました。そこから製造業に対する思いが強くあったのです。
――周囲の学生は製造業に就職した人が多かったですか。
井戸:はい、先輩や友人らの多くはトヨタやパナソニックといった日本を代表するものづくり企業に就職しました。私もその流れに乗り、またゼミでの学習内容を生かせるような職場に行くためにも、就職活動の開始当初はメーカーを志望していました。
しかし就活を続ける中で、メーカーで一人前になるには10年くらいかかるということが分かってきました。1つの企業に10年間コミットするというのは当時の私にはリスクに思えたのです。それよりも若いうちは忙しくてもつらくてもいいので、「促成栽培」のように早く経験を積み、その後のキャリアの選択肢を広げたいと感じました。
――そこで仕事選びの方向転換をしたのですね。
井戸:はい。コンサルティングファームも検討はしたのですが、第三者としてクライアントにアドバイスするよりは、企業の資金調達などにコミットする証券会社の仕事に魅力を感じました。
また日系の金融機関も調べたのですが、外資系のほうが「圧縮したキャリア」をおくることができると考えました。所属していた剣道部にリクルーティングに来てくれた外資系金融の中の一つがGSで、運よく内定をもらえて入社しました。
――剣道部の友人などは外資金融に行った人も多かったのですか。
井戸:いえ、ほとんどいませんでした。当時は先輩のつながりで総合商社やメガバンクに引っ張られるという慣習が強かったのです。私はその自然の流れには乗らず、何が自分のキャリアにとって一番いいだろうとゼロから考え、その結果として外資系金融に進もうと思いました。
ただ、ものづくりにかかわりたいという思いは常にありました。入社前から分かっていたことではあるのですが、金融業界というのは仕組み上、あくまでもアウトサイダーであり、自分たちが主役ではありません。そう感じるたびに「いつかは実業のほうに行きたい」という気持ちになり、その最適な行き方を探していました。
――金融の世界に居続けたものの、模索していたのですね。
井戸:はい、金融の中でも自分で意思決定できる立場に意識的に近づけていきました。
GSでは純然たるアドバイザリー業務でしたが、メリルリンチでは自社の資金から投資する部署でした。その後のTPGキャピタルでは、資金自体はお客様からお預かりしたお金でしたが、それをどこに投資するのかを決め、投資先を実際に変革していく仕事でした。このように、金融ではありながらも事業に対するコミット度合いが高くなっていくようなキャリアを選びました。
しかし、それでもなお「自分はプレーヤーになれていない」という気持ちがあったのです。ではどうしようかと、30歳前後で考えていました。
海外ブランドと日本をつなぐ「ミニ商社」構想。複数の企業に自らアプローチ
――実際、どうしようと考えたのですか。
井戸:私はデザイナーでもないし開発者でもない。ITエンジニアのようにコードが書けるわけでもない。となると私自身が1人で「無」から「有」を生み出すのは、冷静に考えて難しいと思っていました。ただ、やはり、ものづくりにかかわる仕事はしたかったのです。
一方で、これまでアウトサイダーではありながらも、金融業界での約10年の経験を生かせる場もあるだろうし、その経験を高く買ってくれる人もいるだろうとも思いました。
ものづくりにかかわりながら、過去の経験を生かせる仕事は何か。そう考えると、「海外で伸びつつあるブランドを日本の市場とつなげること」で新たな価値を生み出すというところに、自分の活路があるのではないかと思い至ったのです。そこで、海外のパートナー候補にアプローチし始めました。
――そこで出合ったのがアンカーだったのですか。
井戸:はい。ただ、アンカーだけを見ていたわけではありません。海外でどんなものが売れていて、何が伸びそうかといったことをリサーチし、数十社のパートナー候補にコンタクトを取りました。
――では、アンカーと元々つながりがあったわけではないのですね。
井戸:そうですね、全然なかったのでコールドコールからのスタートでした。
当初の構想としては、自分自身で「ミニ商社」をやるイメージでした。海外の伸びているブランドと日本の市場をつなげるというビジネスモデルで、いくつかの製品カテゴリーやブランド群を束ねて扱う想定をしていました。
一つの製品にベット(賭ける)するのは合理的でないと考えていたのです。経済情勢によって特定の分野が伸びるかもしれないし、大きくダメージを受けるかもしれない。そのリスクをヘッジする意図でした。
――結果的にはアンカーだけに絞ることになったと。
井戸:そうですね。アンカーが一番スムーズに話が進みました。また、CEO(最高経営責任者)らに会いに中国本社に行き、話をする中で、ミニ商社をやるよりもアンカーに絞ったほうがはるかに大きな夢を描けると確信したのが理由です。
彼らからは「複数のブランドを扱うのではなく、100%コミットしてほしい。それで成功するか、失敗するかだ」と言われ、この人たちとだったら自分のすべてを懸けてやりたいと思うようになりました。
「断られても失うものはない」。スタートは公開窓口へのメール
――当初の自身の構想とは違う提案をアンカー側からされたわけですが、多少のためらいはあったのですか。
井戸:それほど悩みはしなかったです。私の構想にも理解を示してくれた上での提案だったので、納得がいきました。
ただ、初めに示されたのは本社の社員として入ってほしいという話でした。しかし私としては自分でビジネスをつくっていきたいと思っていたので、「それはできません」と。中間的な案として、ジョイントベンチャーをつくり、私がその取締役になって100%コミットするのはどうか、という形で話が進みました。そうなるまでに、それほど時間はかかりませんでした。
――そのジョイントベンチャーをつくる手法と、本社の従業員になるのとでは、どこが違うと考えたのでしょうか。
井戸:本社からの出資だけではなく、私からも出資して日本法人をつくるので、自分もオーナーシップを持つというのが大きく違う点です。それは単に株を保有しているという狭い意味だけではなく、事業を長期的に伸ばしていくことに全責任を負うという意味でも、ただ本社の従業員になるのとでは全く違ったと思います。
――他に譲れない条件などはあったのでしょうか。
井戸:外資系企業の悪い例のように、箸の上げ下ろしまで本国にすべてコントロールされるのはいやでしたし、それは結果的にグループ全体のためにならないと思っていました。ですから、「基本は結果で見てほしい」と言いました。売り上げ、利益、ブランドの認知度などが結果としてついてきたら、その道筋についてはあまりうるさくいわないでほしいということを、最初に握りました。
――自らアプローチして日本第一号になったパターンは珍しい気がします。
井戸:元々いた業界での実績があって、引き続き同じ業界でのキャリアを探していれば、知人経由やLinkedInなどで声がかかるパターンが多いですよね。しかし私の場合、そもそも製造業で仕事をしていなかったので、声のかかりようがないと考えたのです。
しかし、自分自身がリサーチをするのはタダですし、こちらから声をかけて断られても失うものは何もないので、声をかけまくればいいやと思いました。今、もしも私が当時と同じ状況にあれば、全く同じことをするでしょう。これから伸びそうな海外ブランドを見つけ、その100社ぐらいに声をかけて、その中から一番いい形で事業を構築できそうなパートナーと組むと思います。
――アンカーとはなぜうまくいったと思いますか。
井戸:やはり何のつながりもないところからのアプローチなので、連絡しても完全に無視されることも少なくなかったです。そんな中で、アンカーは「戦略的な話をしよう」と言ってきて、がっちり応援してくれました。
ただ、もしも当時、私が学生だったら、アンカーは返事をくれなかったかもしれないですね。やはりある程度名前が知られている外資系企業にいた経験があり、バックグラウンドがあったので、とりあえず話を聞いてみようかとなったのでしょう。
――実際の企業へのアプローチはどのような手法でやったのですか。
井戸:公開されているホールセール窓口にメールを送りました。「wholesale@xxxxxx.com」のようなメールアドレスのところです。「いいビジネスプランがあるので聞いてもらえないか」という内容を書きました。実際には返事が来てから細かいビジネスプランをつくりこむのですが。
もしそれで返事が来ない場合、そこが私の興味の強い会社なら、LinkedInなどでその会社の関係者を探して、いろいろな角度からメールを20本でも50本でも送ればいいと思っていました。誰か1人でも連絡が取れれば、話を始める糸口になりますから。
専門外のことも何でもやる。会社の成長と自分の変化を楽しめる人が向いている
――ものづくりをやりたいという気持ちがずっと強くあったのですね。
井戸:そうですね。製造業のほうに“復帰”してプレーヤーとしてやりたいと思ったとき、他にもいろいろな選択肢を考えました。日本の大きなメーカーに転職するのもその一つです。
金融のバックグラウンドを生かせる財務部や経営企画部などで、メーカーの成長に寄与するというイメージはできました。しかし、知人や先輩を通じてメーカー関係者の話を聞くうちに、やはり一プレーヤーでは、貢献できる領域があまりにも狭いと感じました。これまで外部の証券会社で自分がやってきた業務を内製化するだけではないか、という気持ちもありました。「これが本当に自分のやりたいことか」と考えると、違ったのですね。
――本国に「結果で見てくれ」と伝えるのはある意味、自身で追い込んでいるようにも見えます。金融業界で働き続けたほうが“安泰”という見方もできると思いますが。
井戸:安泰だとは全く思っていなかったですね。金融はもちろん高収入がある程度約束されている世界ではあります。ただ、私としては製造業のプレーヤー側に行ってインパクトを出したいという目標を定めていたので、金融にいる限りそのゴールはありません。むしろ自分のキャリアプランからすると行き詰まりが見えていたわけです。
また実際にものづくりに携わってみると、BtoCビジネスの手応えは金融では得られないものだったと実感します。証券業や投資業はやはりBtoBの側面が強いので、自分の仕事がどのように価値を生んでいるかが見えにくい。しかし今は、私たちが生み出した製品を使った人たちから日々いろいろな声が届きます。そこに、本能的なというのか根源的なというのか、大きな喜びがありますね。
――最も初期の仕事は何でしたか。
井戸:やはり最初の売り上げをつくることでした。本国からいわれたのは「初年度10億円」。とてもできない、と一瞬思いましたが、やるだけやろうと。日本のGDP(国内総生産)や人口規模からして、それくらいできなければ格好が付かないと思い直しまして。そこで無数にある戦略的な選択肢から、確かさの高そうな施策を選ぶというのが初期の仕事でしたね。
――日本第一号に向く性格や専門性などはあると思いますか。
井戸:何か特定のスキルがあればうまくいくというわけではないと思います。事業をつくるという面では起業と同じなので、ゼロからすべてやらなければなりません。ですので、どんな人でも専門外の領域を確実にやらなければいけないわけです。
実際に取り組む中で、特に最初の1~2年は自分自身が大きく変わっていきます。その変化を楽しめる人かどうか、でしょうか。「会社の成長を材料にして自分を大きくつくり変えてやろう」といった気持ちがある人が、第一号として成功する可能性が高い気がします。
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