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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社投資銀行部門(IBD)で働く小川克貴。教育系企業、ドリーバのM&A案件にアサインされていた。だが、買収の敵となる中国系企業が現れたため、克貴たちは買収価格を上げストーリーを作り直した。そのかいあって、M&Aは無事に成立。そんな中、克貴は山崎社長に呼び出され、M&Aの裏側を聞くことに。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第十五章 貴 後編
「真逆?」
「ファーチャオはそのシステムの中身を知れば知るほど欲しがった。それこそいくら大金を積んででも買いたいくらいの温度感だったさ」
「じゃあどうしてファーチャオではなくドリーバに売却したんでしょうか。何か理由が?」と克貴にはまったく展開が読めなかった。
「冨神貴毅さん、小川君のお父さんだよ」と山崎社長は克貴の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「冨神さんに小川君が例の長年会っていない息子だと聞いたよ」と山崎社長は続けて言った。
「どういうことですか? 話が見えません」と克貴は眉をひそめ、首をひねった。
いつの間にか雨が降り始めていた。
このドアを開けば、きれいな景色が広がると聞かされていたのに、暗闇の部屋に迷い込んだような気分だった。
「冨神さんに頼み込まれたのさ」
「敵のFA(ファイナンシャルアドバイザー)ですよ? 冗談じゃない」と克貴は思わず声を荒らげた。
「冨神さんは研究基幹システムの持つポテンシャルと脅威を直感的に感じたんだろう。それがファーチャオへ渡ることによって、国の基盤が揺らぎうるんじゃないかと」と山崎社長は飛行機が離陸準備をしているのを見下ろして言った。
「たしかに、早い話が日本における研究技術が流出し乗っ取られる可能性があるわけですもんね」と克貴は研究基幹システムが日本以外で展開されたときのインパクトを想像してぞっとした。
「俺としては売却価格がすべてだったよ。国なんてものは共同体の一つの形態でしかないし、そこに価値を置いていない。国がなければ悲惨なことになるから国は絶対的に必要だという考えは、弱者の論理だよ。他国で生きればいいだけさ、新しく築くことができない人間のロジックさ。まあ俺の場合は国から、日本の証券界から、ある種退場させられた人間だがらな。ただ一般の人々のことも考慮して物事を考えるのが冨神さんだったんだよ」
それを聞いて克貴ははらわたが煮えくりかえるほど怒りを覚えた。見知らぬ人々のことを大事に思う前に身近な家族を大切にすべきではないのか。それこそ欺瞞(ぎまん)ではないか。拳を強く握り、爪が食い込んだ。そしてどうにか怒りをやりすごした。
「冨神さんが俺に頼み込んできたんだよ。国をかけたものだからUBUは手を引くと言ってきた。ファーチャオにもうまいこと話をつけると。全部責任を持つと。俺が日本の金融業界から追放されたときの恩人だぞ。外資系投資銀行のレジェントである冨神さんが俺に頭を下げるなんて。信じられるか」
あの父親が山崎社長に懇願している姿など想像できなかった。
「そこまで不退転の決意でお願いをされて断ることができるものか。俺にだって金より大事なものはある」
そう言い放つ山崎社長の顔は精悍(せいかん)で、熱を帯びているようだった。
「まあ貸し借りをチャラにできて、バランスシートが正常化したとも言えるしな」と山崎社長はあえて軽口を叩くように言った。本音は心残りがあるのは克貴から見ても明らかだった。
「それでスムーズにいったんですか?」
「俺の方はユニパルス社とドリーバとの最終契約書を締結すればいいだけだからな。大変だったのは冨神さんの方だよ」
「大変?」
「冨神さんはUBUを引責辞任した。客観的に見ればクライアント企業への利益相反行為だからな。もちろんUBUにとってもフィーをとりっぱぐれただけでなく、信頼を損ねた部分も大きい。当然ファーチャオからはクレームの嵐で、UBUは出禁になった。そんなことが分からない人じゃない。すべて承知の上で俺に頭を下げたのさ。国のために、日本の未来のために」
「そんなことがあったなんて……」
山の際に夕日が沈みゆこうとしていた。その境界はあいまいで、ぼんやりして見える。
人や物事というのはそういうものなのかもしれない。ある物事にボーダーを引いて白黒つけるなんてことはできないのかもしれない。
「そろそろ時間だな」と山崎社長は立派な腕時計を覗き込んだ。
「あの、ありがとうございました。教えていただい――」
「もうすぐ来るはずだ。会わせたい人がいる」と山崎社長は克貴の言葉を遮った。
夕暮れ時は神聖な気持ちになる。
青かった空がだいだいに染まり、紫や桃色にも変化し彩られていく。昼と夜の時間の狭間に居合わせた者だけが見ることを許された光景。自分は今まさに境界線がなくなる地点に立っているのだ。
長く伸びた建物の影から人が現れた。
今度は視線を逸らさなかった。
冨神貴毅、父との邂逅(かいこう)。
「その表情は聞いたようだな」と冨神は威厳のある声で言った。しかしどこか枯れたような印象を受けた。
すっかり陽が沈んだ空は、熱線のような光を発している。
「家族のこと、許したわけではありません」と克貴は言った。
冨神は何も言わず皺の刻まれた顔を向けた。
「言っておくが俺は謝らない。どうやってもこれが俺の生き方だからな」と冨神は言い放った。
夕日の光が視界に差している。言いようもない感情に襲われ、克貴は言葉を発したいのにできなかった。目をつむり、息を吸って、冨神へ視線を戻そうとした。
すると冨神は静かに頭を下げた。克貴はあまりにも自然な動作に何が行われているか理解するまで時間がかかった。
「世界ばかりに目を向け、目の前の幸せを守ろうとしていなかった。あり余るエネルギーのまま、子を作っても、家庭を顧みず仕事に猛進した。自身の限界まで高みを追い続けた。だがいつかは次の世代へ引き継がないといけない。そしてお前のような次世代が俺たちを超えていく。先日のM&A案件ではその踏み台に少しはなれたのだろうか」と冨神はどこか疲れたような声で言った。
克貴は、胸の奥に長くとどまっていた空気を押し出すように息を吐いた。
「僕は父親という存在を追って、投資銀行という世界に入りました。あなたに会って憎しみをぶつけるために。でも今は違う、と思います。日本のために身を粉にして仕事を全うする、その貴い精神性をくしくもあなたから学びました」
「そうか」と冨神は言葉を切った。
「克貴という名前には、あなたから受け継いだ“貴”という字がしかと入っていますから」と克貴は拒絶していたものが溶けていく感覚を覚えた。好きではなかった名前にも意味を見出すことができたような気がした。
父の遠く後ろでは航空機が視界を斜めに切るようにきらめき、飛び立つのが見えた。
「会えなかったが、高嶺貴一にもよろしく言っておいてくれ」と冨神は一通の赤紫色の封筒を克貴に手渡した。その封筒は几帳面にのり付けされていた。
「どうして高嶺に?」と克貴はいぶかしんだ。確かに同じ若手バンカーとして案件に携わってはいたが、父とは関わりはなかったろうに。
「貴という字が俺の子という証だ。兄弟が2人ともバンカーになるとは血は争えないな」と父はなぜか寂しそうに言った。
「これから米国へ飛ぶ。もう日本へは帰ってこないだろう」
赤々と燃えるような陽の最後のうめきは収まり、夜へと向かおうとしていた。静寂が支配しようとする世界で、父の言葉は残像のように響いた。
「過去の自分を超えられない醜悪な男にはなるな」
父が業界を去り、海外に飛び去った。国境を越え、遠い地に。だが彼の抱えているものの一端に触れた気がした。父との確執を簡単になくすことはできない。だが彼が見ようとした世界、目指していた世界に近づくことができたような気がした。
克貴には何をしなければならないのか分かった。
高嶺貴一に会いに行く。
(最終章 クロスボーダー 前編につづく。2023/5/12更新予定です。)
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