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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社投資銀行部門(IBD)に新卒で入社した、小川克貴。教育系企業、ドリーバのM&A案件にアサインされた。だが、中国系企業が買収予定の会社を買う意思を見せ、克貴たちは買収価格を上げてストーリーを作り直すことに。多くの業務量を猛スピードでこなす中、同期の高嶺が体調を崩し、そのまま辞めてしまう。
●売り手
ユニパルス社
ユニパルス社大株主のファンド運営会社社長:山崎社長
●買い手候補1
ドリーバ
ドリーバのファイナンシャルアドバイザー:ドイチェガン証券
●買い手候補2
ファーチャオ
ファーチャオのファイナンシャルアドバイザー:UBU
「クロスボーダー」バックナンバーはこちら
注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第十五章 貴 前編
バレンタイン前のシーズンは街が華やぐ。日本は年中何かしら理由をつけて街を飾ろうとする。
一足早く葵がくれたチョコレートは甘く胸やけしそうなほどだったが、エレンがくれたものはビターで寂しさを感じさせた。
ファーチャオからの連絡が再度あり、さらなる高値で交渉するから降りろというプレッシャーをかけられたようだった。
克貴はそういった情報に左右されることなく、与えられたタスクをひたすらこなしていった。
山崎社長から指定された3週間が経とうとしていた。
ドリーバは意地でも予算を確保してきたようだった。ドリーバの社長は清々しい表情をしていた。
しかし気になるのは、ファーチャオが当初よりも金額を出す準備があるから諦めろと圧をかけてきたことだった。ドリーバが用意した予算は彼らが出せる最大の額だろう。これ以上は不可能だった。
話し合いの場には山崎社長がおり、ユニパルス社の社長も控えていた。
「金額は用意できましたか?」と山崎社長が切り出した。
「はい」とドリーバの社長は笑顔で応えた。
「さすがはドリーバの社長さんです。我々の持つノウハウや技術がファーチャオに渡ってしまうと思ったらゾッとします。本当にあなたは立派な方だ」とユニパルス社の社長は褒めそやした。その様子を山崎社長は一見、温かい目で見守っていた。だがそれは、どこか諦めたような顔にも見えた。
「私が日本の教育サービスを守ります」とドリーバの社長は胸を張って言い切った。
克貴はその経営者の誇りと自信に感銘を受けた。山崎社長の手のひらの上だったとしてもその気概が尊敬できることは変わらなかった。
「それでは最終合意書のドラフトを確認ください」と山崎社長は紙の束を差し出した。
ドイチェガンの全員が目を見開き、顔を見合わせた。
話がとんとん拍子に進んでいる。もはやだまされているのではないか。
株式を現金で買い取るというストラクチャーだった。株式譲渡契約には、最も重要である取引価格、支払方法、誓約事項の確認、デューデリジェンスなどで確認したもの以外に、簿外債務などの“爆弾”がないことの表明保証、従業員の取扱い、企業運営方法の取り決めなども盛り込まれていた。
ドリーバとしては特に気にしなければならない条件や条項はなかった。基本合意書で結んだことと変わりなかった。
ユニパルス社の運営に関しては子会社化したところで大きくリストラクチャリングをするつもりもなかったし、むしろユニパルス社のポジションを使って、ドリーバの野望を実現しようとしていた。
金額面だけが当初とは大幅に違ったが、それ以外は希望通りのM&Aになった。
そして順当な流れで最終契約書を締結し、M&Aがクローズした。
届いた段ボールの箱を開け、中身を取り出す。
その曲線をなでる。
指先をぐるっと一周させると形の美しさに息が漏れる。
貴金属の冷たさが実感をさらに強める。
ハート形の特注のトゥームストーンに案件情報を刻むことができたのだ。
克貴は自分の初案件がこうして形になったことに大きな喜びと、重荷を降ろせた安堵を感じた。
トゥームストーンを会議室に並べ、関係者全員に配り終えた。最後に克貴の机の上に飾った。
ハート型という異例のデザインは自分の机によくなじんだ。それを見ているとここにいる不思議さを感じずにはいられなくなる。1年前までは遠かった投資銀行の世界に今はいる。こうしてビジネスを大きく動かす場にいられたのは貴重な経験に違いない。
学生時代には想像もできなかったハードな交渉や、名だたる会社のエリートたちと戦うことになった。そしてM&Aの案件で勝利をつかみ取ることができた。
とはいえ、案件としては驚くほどスムーズに終結した。M&Aと大仰にいっても、シンプルに表せば契約書を交わすだけなのだ。
投資銀行の役割は最終契約書を交わすところまでで、買収後の企業間の連携などのいわゆるPMI(※1)は行わない。それに対して克貴は消化不良のような違和感を覚えた。企業が本当の意味でM&Aを成功だといえるためには、ここからのプロセスがむしろ重要なのではないかと感じていた。
しかし、どうして突然霧が晴れたかのように、案件がクローズに向かったのだろうか。克貴には正直よく分からなかった。
一般的にはもっと時間がかかるものだ。両者間の細かい条件の最終調整で手間取るものだからだ。
克貴は当初、もうひと悶着(もんちゃく)あると予想していた。さらなる金額をドリーバが用意する必要が生じ、社内調整にまた手間取るのではないかと思っていた。
とはいえ、無事に終わって本当に良かった。ドリーバとユニパルス社のPMIがこれからうまくいくことを願うだけだ。
そう胸をなでおろしていたところだった。
胸のポケットで携帯電話が震えた。
克貴が電話を取ると、聞き覚えのある声がした。
山崎社長だった。
「明日の夕方会えないか?」
「はい、空いていますが、どういったご用件でしょうか?」と克貴は言った。一体どういった風の吹き回しなのだろう。
「よし、じゃあ場所と時間はあとで送っておく」と山崎社長は一方的に通話を切った。
その場所は無数に太い線が引かれているように見えた。
飛行機の離発着の音が響き渡っている。
「ついてこい」と山崎社長は克貴を見つけると歩き出した。
各社の飛行機が見える展望デッキは風が強かった。克貴のビジネス用に買った黒いロングコートが左右にはためいている。
3月下旬にもなると日の入りが遅くなっているのを感じる。夕日が克貴たちの影を長く照らしている。
デッキの柵に両腕をかけ、横並びで眺めていると、1機の飛行機が視界から飛び立った。
「無事終わったよ。入金もな」と山崎社長はおもむろに語りだした。
「おめでとうございます」と克貴は言った。
「ユニパルス社は50億円から3000億円になった」
「2950億円の利益ですね」と克貴は少しでも対等に話ができればと思って言った。
「5年で60倍だからIRR(※2)は結果的に126.8%だな。悪くない投資効率だ」と山崎社長は取るに足らないことのように言った。
「さすが、圧巻の一言しかありません」
「今日はそんなことを自慢しにきたわけではない。あのM&Aについて小川君に話しておかないといけないことがある」
そう山崎社長は言うと、克貴に向き直った。
夕日が山崎社長の後背部を照らしている。後光が差しているようだ。逆光の中、鋭い視線を感じる。
「あのM&Aでは俺にも予想外のことが起こった」と山崎社長は両手の指を組みながら言った。
「実は気になっていたことがあります。山崎社長はドリーバに対して巧妙に買収価格を上げるように促していました。そしてそれは本来、ファーチャオへの交渉材料にするためだったのではないですか? ファーチャオの方が資金があって、買収価格を更につり上げることができたでしょうから」と克貴は意を決して言った。
「なかなか核心をつくな」と山崎社長は高らかに笑った。うれしそうにも見えた。
「いいだろう。率直に話すために呼んだからな。実際俺はファーチャオに高値で売り抜くつもりだった。ドリーバのM&A予算も把握していたし、最初から当て馬だった。彼らから最大の条件を引き出し、それをちらつかせファーチャオに吹っ掛ける。ファーチャオがビットする金額を基に、他のファンドにも当たり、ファーチャオに焦りを与え条件が揺るがないうちに即決させる。そういう戦術の予定だった」
「したたかですね」と克貴は町田さんが予測していた通りだったことに震えた。
「選択肢を複数握っておくのが基本だからな。最悪、相手との交渉を打ち切ることもできるという強気のポジションが成功をもたらすのさ」
「でもそうしなかった。ですよね? 何があったんですか」
「それが話したい本筋だ。ユニパルス社のビジネスを覚えているか?」
「就職活動を通じて社会人力を身につけるBtoCサービスですよね。いわば就活塾的なビジネスモデルを基盤としている。そして学生のうちに即戦力で働ける状態に鍛え、企業から求められる人材となれば、就活もうまくいくというロジックですね。実際に僕も利用していました。ユニパルス社のサービスを使っていなければ僕なんかが外資系投資銀行には到底受かっていなかったし、1年間もこのハードな仕事に食らいつけなかったと思います」
「ユニパルス社は就活系の素晴らしいサービスを基盤としているが、それは一面だよ。ユニパルス社にはもう一つ売上のウエイトは低いが、重要な機能があるんだ」
「そういえば売上比率1%未満でその他の事業に含まれていた研究関連の事業があった気がします。でも、割合が小さすぎて全く気にもかけていませんでした」
「いわば社会貢献事業であり、収益性を求めていないからな。だが、ファーチャオの本当の狙いはこいつだった」
「それは一体どうしてですか」と克貴はこれから重要な話が始まることを予感した。
「日本の大学の研究機関にほぼ無償で提供している基幹システムだよ。特に最先端の技術を解析し、再現性を持たせるためのアルゴリズムを走らせ、進展パターンを自動提示するものだ。蓄積された膨大な研究のデータベースにも価値があるし、そこから発展した応用技術にも大いに可能性があるものだ」
「そんなすごいものの売上ウエイトが低いなんて」
「ユニパルス社の社長の方針だ。社会貢献性を重視し、大学からは直接お金を取らず寄付金でシステム運営をしているのさ。だから長くやっていけるとね。まあ俺はそこにテコ入れをしたかったが、そこは社長のいいところでもあるし、俺としても熱意を優先した形だな」
「合理的なはずの山崎社長らしくないように思えるのですが」と克貴は疑問を呈した。すると山崎社長はフッと笑った。
「熱意があった方が育つからだよ。価値があればマネタイズはいつ行なってもいいからな。現にこうしてトレードセルという形でマネタイズはできたわけだからな」と山崎社長は眉をすっと上げた。
「それでその研究基幹システムをファーチャオに売ろうとしていたけれど、彼らが予想外に興味を示さなくなったんでしょうか?」と克貴は聞いた。
町田さんが言っていた「まだ知らない交渉カード」は確かにあった。この研究基幹システムがそれだったのだ。そして何らかの理由でファーチャオの熱が冷め、思いのほか値段が上がらなかったのだろう。思い通りにいかないのが、交渉というものなのだ。
「その真逆だよ」
※1 PMI Post Merger Integrationの略。M&A後の経営統合プロセスのこと。新経営体制・新経営ビジョンの構築、実現に向けた計画策定、人事・経理・ITシステムの統合などを指す
※2 IRR Internal Rate of Return(内部収益率)の略。時間的な価値を考慮した、投資によって得られる利回りのこと
(第十五章 貴 後編につづく。2023/4/28更新予定です。)
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