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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社投資銀行部門(IBD)に新卒で入社した、小川克貴。教育系企業、ドリーバのM&A案件にアサインされることに。町田の機転により、競合のシルバーマンウィングスと差をつけ、案件獲得に成功した克貴たち。同期の高嶺もアサインされるが、一緒に働くうち、克貴は彼との差が開いていくことに焦りを感じていた。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第十二章 温度感 後編
ドリーバのオフィスに入ると気温差でM&Aヘッドの眼鏡が曇る。凍てつくような外気に、むわっとした室内。
ドリーバとのキックオフミーティングは温かい雰囲気で行われた。一度来訪した場所なので、克貴もそこまで緊張せずにすんだ。
そこで改めてあいさつをすることになった。チーム紹介をモーガン土井が一通り終え、克貴も一言あいさつを求められた。当たり障りのない自己紹介を無事に終える。隣の高嶺は、「私が窓口として対応することもあるかと思いますので、よろしくお願いいたします」とアピールするのを忘れていなかった。
こういった貪欲さにも克貴は感心し、ねたましさを覚える。同時に自身のあまりの積極性の無さにふと苛立ちを感じた。
キックオフミーティングは思っていたよりも短い時間で終わった。
次のアクションまでは克貴がすることはあまりなさそうだった。
帰社すると、どっと疲れが襲ってきた。
克貴は困惑した。昨日は夜中まで働いていないし、むしろ早く帰宅し、近くのサウナスパにも行き、リフレッシュしてきたはずだった。そしてキックオフも大した負荷がなかったはずなのに。
だが、案件が進んでいくのだという実感と、途方もないM&Aの道のりを感じて疲れが浮き出たのだろう。
突然、足がもつれた。革靴のひもがほどけていて、踏んでしまったようだ。
デスクにぶつかり、がたがたという音とともに、鈍く重い痛みが克貴の肩を襲った。その様子を見て高嶺は冷笑していた。
大量の本がドミノ倒しになって床に落ちた。大柄なディレクターの本だった。克貴は即座に謝り、本を拾い集めようとした。ディレクターは気にしないで、といいつつも仕事を続けていた。
金融規制や税規制、国際税制などの本や資料ばかりだった。克貴にとってそれは未知の領域だった。さすが監査法人出身で、公認会計士のディレクターだ。
転職して2年目になる人らしいが、いかにも頭が良くできる人に見えた。このディレクターも、克貴たち若手に劣らないくらい夜遅くまで働いている。そして高嶺も、エレンも彼の下についたことがなかったと思う。
1~2個上の先輩たちもその人と仕事をしているところを見たことがない。専門性が故に、孤高に突き詰めるタイプなのかもしれない。
拾い終わると、ディレクターのPCがちらりと見えた。自分で資料を作成していて、その質も高そうだ。ディレクターになっても自ら手を動かしクオリティの高いものを作れるのは素直にすごいなと克貴は思った。
ドリーバと、買収先企業とのトップ面談が終わったとの報告があった。話し合いはうまくいったらしい。買収先企業のトップはドリーバに対して友好的で、このままいけば基本合意書も難なく交わされるだろうとの見通しだった。
しかし株主には手ごわいファンドもいるため、気を引き締めていかねばならないだろう、とのことだった。
基本合意書では、デューデリジェンスやスキームの確認、買収価格の大まかな範囲を盛り込む。デューデリジェンスとは、M&Aを行うにあたって、契約前に買収側が売り手側企業の経営・財務状況や企業価値、リスクなどを徹底的に調査することだ。現場では略してDDと呼ぶことも多い。基本合意を締結したのち、本格的なDDを行い、より正確な企業価値を算定し、最終条件の交渉へと入っていく。
まずは先日のコンペでも示したバリュエーションをもとにDDを開始しなければならない。
そのためにDDチームを組成していく。タックスDD、財務DD、リーガルDD、ビジネスDD、それに教育分野の専門家DDと、チームの種類は多岐にわたる。
税務や財務DDに関しては監査法人などでチームを構成する。リーガルDDに関しては弁護士事務所、多くの場合、日本の四大法律事務所か、あるいは国際弁護士法人で構成される。ビジネスDDはコンサルティングファームで構成されることが多い。
これらのデューデリジェンスチームをまとめていくのが投資銀行の役割なのだ。
教育分野の専門家たちのDDから本格的にエグゼキューション(※1)は始まった。
大学教育の在り方や、大学生の就職活動、今どきのキャリア形成についての議論や聞き取り調査が行われた。
克貴にも身近な話題だっただけあって、内容は頭に入りやすかった。
克貴と高嶺は議事録を前半と後半で手分けをして取っていたが、最後にメールをまとめて高嶺が送ると提案してくれた。ありがとうと克貴は応え、別の資料作成へと移った。
そして評価されるのはいつも高嶺だった。
克貴はそれも評価になるというのは、あとになって気づいた。
一仕事終えて、葵のいるコーヒー店へと向かった。するとモーガン土井がいた。すこし気まずさを感じた。
「やはり高嶺くんの方が使えるな」とモーガン土井は嫌味を言って去っていった。
克貴は思わずうつむいた。葵と目が合わせられなかった。
「はい、ブラックコーヒー」と葵は明るく言った。
「ありがとう」と克貴は葵ではなく、カウンターを見ながらつぶやいた。
「何を気にしているの? 堂々としていなさい。あの人はかっちゃんの一部分だけを見て評価しているんだよ。評価にはならない努力も、自分のためだけの努力もあるんだから。それでいいのよ」と葵は言った。
最近の葵は大人になったと感じることが多い。それもまた彼女が心を開いてくれているからなのだろうか。
「でも、評価されないと出世できない」
「かっちゃんは賢いのにばかだよね。既存の基準で評価されているだけじゃだめなんじゃない? 枠を取っ払って自分で新しい評価軸を作りなさいな」
「でも、それじゃ……」
「出世するってどういうことかわかる? 人の上に立つということよ。いったい誰が評価ばかり気にしている人の下につきたいかな?」と葵は落ち着いた表情で言った。
毎朝9時からドリーバとのミーティングを行い、細かく進捗(しんちょく)を追っている。順調に事は進んでいるように見えた。
買収先企業の実態を見るために、その企業のオフィスに直接訪問する日程が決まった。
そこで資料を開示してもらうためのNDA(※2)と独占交渉権を結ぶ予定だ。
しかし、これを境に、なぜか相手から返信が遅くなり、やがて来なくなった。何日経っても連絡が来ない。
催促しても煮え切らず、「お待ちください」との返事だけが届いた。
嫌な予感がする。
「これはまさか……」と町田さんが唇をかんだ。
「まさか?」と克貴は聞き返す。
「……別の敵が現れたな」
心なしか、克貴たちを取り巻く温度が低くなった気がした。
※1 エグゼキューション M&Aにおいて一連の事務手続きを実行及び管理すること。
※2 NDA Non-Disclosure Agreementの略。秘密保持契約のこと。
(第十三章 絶句 前編につづく。2023/2/10更新予定です)
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