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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社IBD部門に新卒で入社した、小川克貴。ロンドンでの研修を終え、日本での生活が戻ってきた。会社に行くなり、先輩社員の町田に呼ばれた克貴は、研修前に資料を作成していた教育系企業のM&A案件が動き始めたことを知る。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第九章 馬車馬 後編
「克貴はドリーバがどういう会社を欲しがっていると思う?」
「やはりIT化を進めたいと考えているということは、アプリやサービスを作れる開発会社ではないでしょうか。エンジニアをたくさん抱えているとか……」
「IT技術主体の会社を買収するのがいいと?」
町田さんはにやにやしながら聞いている。
「はい、教育はレガシーな業界ですから、足りないのは技術ではないかと」
「ITサービスへの知見がまだ足りないな。IT業界というのは技術ドリブンのように思えるが、その実プロダクトやサービスがすべてなんだ。技術はあくまで事業を支えるツールでしかない」
「えっと、どういうことですか?」
「テクノロジーによってイノベーションが起こるが、顧客はテクノロジーを求めているわけではない。テクノロジーそのものを求めているのは、一部の新しいもの好きのアーリーアダプターぐらいだ」
「みんなテクノロジーを追い求めているように思うのですが」
「テクノロジーの結果、便利になったり効率的になったりするから喜ばれるのさ。いかに技術的に高度であっても使いにくいテクノロジーは顧客にとっては、企業の独りよがりに感じる。そこをはき違えるなよ」
「プロダクトアウトとマーケットインの話と似ていますね。技術という企業が出したいプロダクトを売り出すのではなく、顧客が求めるニーズに寄り添うマーケットイン発想でなければならないということですね」
「今回はその通りだ。ただ必ずしもプロダクトアウトが悪いわけではない。顧客が顕在的に求めるものを作るだけでは革新がないからな。フォードの有名な話は知っているか?」
「米国の車会社のフォードですか?」
「フォードが自動車を普及させたといってもいい。それまでの時代の交通手段は馬車だった。馬車の時代に、顧客に『何が欲しい』とヒアリングしていたらなんて答えたと思う?」
「そりゃ車じゃないですか」
「ほんとに?」
「あっ自動車は存在しないんですよね? ということは車とは答えられないのでしょう。もっと速い馬がほしいとか、暴れず手がかからない馬がいいとかですか」
「なかなかやるじゃないか。馬車の時代には車なんて想像もできないんだよ。今、人間が空中を歩いて移動することを想像できないように。人は本当に必要なもの、欲しいものを想像できているとは限らないのさ。提案されて初めて『こんなものを求めていたんだ!』という瞬間はないか?革新的なサービスというのは顧客が認識していなかった深層の欲求をプロダクト化したものなんだよ」
「たしかに、マーケットインだけではイノベーションは起こりにくそうですね」
「そう結論付けるのは早計だ。それは浅いマーケットイン思考さ。本当のインサイトは何かを突き詰めて考える必要がある。速い馬が欲しいとか暴れない馬が欲しいという心理の本質は何なのか? たまたまその手段しか知らないから、馬と言っているだけかもしれない。真意をくみ取らなければならない。」
「馬は移動する手段ですよね。要は移動を速く、楽にしたいってことですね。」
「それが本当の顧客ニーズを突き詰めて考えるマーケットインさ。でも世の中にないサービスを投じるという意味では作り手の魂を込めたプロダクトアウトが有効なのさ」
「なるほど、勉強になりました」
克貴が町田さんの年齢になったときに、その域に達しているとは、到底思えなかった。頼もしい背中ははるか遠くに感じた。
「テクノロジーというのは、さっきの話でいうところの馬になりうるんだよ。馬は絶対ではなく、手段なのさ。既存のテクノロジーが、すぐに馬のような存在になるかもしれないことを考慮に入れなければならない。それを踏まえて、技術がある開発会社を買収するのは、筋がいいと思うか?」
「そうですね、それこそ車社会の中で、移動手段として馬でもうけようとはしないように、技術が時代遅れになったら意味がないですし、結局潜在的に顧客が求める教育サービスは何なのかに回帰する気がしてきました。それを持つ、あるいはこれから持ちうる企業が必要なんじゃないでしょうか。ただ元々ある教育サービスというより、IT技術が伴い、顧客にとって便利だったり、こんなものが欲しかったと思われたりするような新しい教育領域を強みとするところです」
「たどり着いたな、それが今回のEdTechの意味するところだよ」
克貴は町田さんに暗いトンネルの中から出口に誘導されたような気持ちだった。もっとも、幼子のように手を引いてくれるわけではないし、出口に到達したと思ったら、外には人の手がつけられていない荒野が広がっていたというような感覚ではあるが。
「そうすると買収対象の業界はものすごく広いですね……」と克貴は途方に暮れた。
「ここでドリーバへのヒアリングを通して、戦略を探っていった地道な努力が効いてくる。ドリーバは、この数年、既存事業の新領域に力を入れている。既存事業はほとんど伸ばし切ったといえるからだ」
「どうして完全な新規事業ではないんですか? その方がマーケットを広げられそうに思えるのですが」
「会社のアセットを使わずに、まっさらな新規事業で成功することは困難を極めるからだ。基本的には大失敗をして終わる」
「なぜですか?」と克貴は信じられないといった顔で言った。世の中には新規事業があふれているようにすら感じる。
「理由は3つある。1つ目だが、根本的に大企業の経済合理性に合わないからだ。大企業の組織は既存の売上が数百億円、数千億円と大きい。対して、新規事業が数年間で1億円の売上に到達したとしたらすごいことだ。既存事業を1パーセントでも伸ばす方が確実だしインパクトが大きい」
「確かに売上が800億円あるドリーバなら1パーセント伸ばしたら8億円のインパクトですもんね。リスクとリターンを考えても、完全な新規事業はハイリスク・ローリターンに見えてしまう」
「2つ目は、大企業の人間はサラリーマンだということだ」
克貴は、何を当たり前のことを言っているのだろうと首をかしげた。
「命をかけていないのさ。新規事業が立ち上がらなくても、クビになることもなければ借金を背負うこともない。それは良いことだよ。大企業の人間は総じて優秀だし、十分真面目にやると思う。ただ、起業家は事業が失敗すると自分の会社がつぶれるし、保証人として大借金を背負うこともある。そういう意味で、スタートアップ企業と比べると、どうしても意気込みに差が出てしまう」
「言われてみたらその差は大きい気がします」
「それに大企業のサラリーマンだとインセンティブもそこまでない。新規事業が成功しても給与もさほど変わらない。多少の出世があるくらいだ」
「そうすると普通に仕事を頑張るのと変わらないかもしれません」
眉を上げて町田さんはうなずいた。
「3つ目は、そもそもどんなに熱意があろうが、まっさらな新規事業はなかなか立ち上がらないということだ。ベンチャーキャピタルの世界では、投資して収益化するスタートアップ企業は1000分の3だともいわれる。うまくいく、投資に値すると判断されても0.3パーセント。投資されないアイデアや事業も含めたら、どれだけ低く大変な確率なのかわかるだろう」
「新規事業って華々しくてかっこいいイメージがありましたが、シビアな世界なんですね……」
「だから本当に新しい領域の事業をしたい場合は、立ち上がった会社を買収して、その会社のリソースを使って伸ばすんだよ」
「だからなんですね。どうして優秀な人材が多いはずの大企業が自社で立ち上げないのかと疑問に思っていましたが、そういうことだったんですね」
「M&Aの戦略的意味が見えてきたか?」
「はい」
「ここ数年は既存事業の新領域に力を入れているといったが、あくまでここ数年のことさ。俺たち投資銀行が関わるのは中長期的な全社戦略に関わる部分だ。つまり5年先10年先を見越さなければならない」
町田さんはすっかり湯気が立たなくなったコーヒーを飲みほした。
「会社がこれまでやっていなかった新規事業、それもパズルのピースがはまり、きれいな平面が出来上がるようなシナジーある新規事業分野のM&Aさ」
「M&Aの全体像が見えた気がします」
「これを見ろ」と町田さんは資料を広げた。
既存事業、既存事業を発展させた新領域、完全な新規事業をマッピングした図だ。
(第十章 透明な一線 前編につづく。2022/10/14更新予定です)
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