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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社IBD部門に新卒で入社した、小川克貴。慣れない仕事に奔走していたが、ロンドンで行われる新卒1年目向けの研修に参加することに。そこで克貴は、あるファンド運営会社の社長と出会った。その社長の半生を聞いているうちに、彼を助けた伝説のバンカーとは、自分の父親だと気づく。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第九章 馬車馬 前編
1カ月以上ぶりの出社は少し緊張した。久しぶりにスーツを着ると気が引き締まる。ロンドンでの研修中はビジネスカジュアルの格好でOKだったからだ。
アスファルトを打つ革靴のコツコツという音が鼓動を高める。早朝の空気なのに熱気と湿気をすでにはらんでいる。
警備員が行きかう人々をにらみつけ、受付嬢がほほ笑んでいる。
エレベーター前に進もうとすると、聞き慣れた声が聞こえた。
「ヘイ、ABCD」と後ろからエレンが明るい声で言った。
「もう日本なんだからその呼び名はやめてくれよ」
陽気なテンポで話を進める英国人の先生は、なぜか何度も克貴を指名した。そして何度もA+B+C=Dという答えを言わせるので、ABCDというニックネームで呼ばれるには時間はかからなかった。
A+B+C=Dというのは、M&Aにおける財務のあり方を端的に表現した式だ。
「最初はアカウンティング(※1)のABC(Activity Based Costing)(※2)の進化版のことかと思ったけど、全然関係なかったね」と克貴は言った。
「M&Aの話だったね。しかも一般的に使われる用語じゃないらしいわよ、先生が好んで使っていただけで」とエレンが言った。
「そうなんだ。でも、Aの自社の財務とBの買収先の財務を合わせてCの調整が入ると、Dの買収後の財務になるというのは、覚えやすくて良かったよね」と克貴は方程式を浮かべるように言った。
M&Aというのは単に1足す1が2になるのではなく、3にもなれば10にもなるように全く別のもの(D)になるのだ。
「なんかドラキュラみたいじゃない? 誰かの血を吸って別の形態になるみたいで」とエレンは真顔で言った。
エレベーターが開き、克貴たちは乗り込んだ。少し早く出社したからか、エレベーターは2人きりだ。
「おかしなことを言うね。僕はどちらかというと人間みたいだなと感じたけどね」
「人間が別の人間と融合するってこと?」とエレンはいぶかしげに聞いた。
「そういう意味じゃなくてね、個人の内面の話さ」
「どういうこと?」
「人が何か大きな経験をしたとするだろ?すると今までの自分に新しい要素が加わることになる。これってA+Bだよね。でも単にAとBが合わさるんじゃない。大きな経験は個人の質を変容させるときがある。性格が変わることもあれば、大事にしているものの配分が変わることもある。そういう調整のような働きが確かにあって、それがCなんじゃないかな。そして新たな自分に出会える、つまりDさ」
「ロンドン研修という経験をして一皮むけて、社会人として一つレベルアップしたってことかしら?」
「まあ、そうともいえるね」
「あるいは克貴が私と出会って化学反応が起こって、そんな自分の気持ちに戸惑っているってことね」エレンはからかうような顔つきで言った。
「なあ、エレン」と克貴はやれやれといった表情でため息をついた。以前はエレンがこういうことを言うとすぐに動揺していたが、だんだん慣れてきた。
「じゃあ克貴は、ABCDのようなことが何かあった?」
「それは……」と克貴は話を逸らそうと意味もなく周りを見渡した。
エレベーターが開いた。部門を隔てる堅牢な扉の先には仕事場が待っている。
「よし、また仕事頑張らないとな。研修後からはもう『一年目だから』は通用しないって聞くし」と克貴は切り替えるように言った。
「愛嬌(あいきょう)だけでは乗り切れなくなっちゃうかも」とエレンはくしゃっと笑った。
カードキーで解錠し、部門のドアが開く。心なしかピリッとした緊張感を覚える。
すでに資料を広げて作業をしている先輩、新聞を読んでいるディレクター、持ち込みのマグカップにコーヒーを注いでいる秘書。
克貴がいない間も、仕事は動いているのだ。そのあたりまえの事実を痛感し、焦りが生まれた。遅れを取り戻すためにも馬車馬のように働かねば。
急いで席に着き、PCを立ち上げた。
「よっ克貴、おかえり」と町田さんが肩を小突いてきた。
「ありがとうございます、これお土産です。良かったらどうぞ」
「イングリッシュブレックファースト、ダージリン、アールグレイ。種類も豊富でいいな、サンキュー」
「良かったです」と克貴の顔に笑みがこぼれた。
「お返しじゃないが、克貴に朗報だ」と町田さんは指を鳴らした。
「はい」と克貴は背筋を伸ばした。
「帰ってきてすぐだが、仕事モードに切り替えろよ。克貴が作っていた企業の営業資料があっただろ。イギリスに行っている間、話が進んでな。案件が本格化してきたから俺もアサインされたんだ」
「町田さんが一緒なのはうれしいです!」
「それだけじゃない。実は最終局面になったんだ。うち以外にも、もう1社M&Aを提案している投資銀行があるらしくて、1カ月後にコンペがある。グローバルチームも交えてその資料作りで忙しくなるぞ」
「帰ってすぐに案件が動こうとしているとは」
「いよいよ、克貴も本格的に案件に参加できるな。でも、コンペに勝てないと何も始まらないぞ。正念場だ。詳しくはあっちで話そう」と町田さんは会議室に目をやった。
ノートとペン、ロンドン研修前に作った営業資料、ホットコーヒーを持って、例のトゥームストーンが飾られた会議室へ入った。
「改めて、概要を整理して伝えよう」
「お願いします」
「わかっていると思うが、クライアントはドリーバだ。克貴が営業資料を作っていたときは、業界分析やロングリスト(※3)的に買収可能性のある企業の洗い出しをしていたよな。その企業群のカンプロ(※4)をクライアントに見せて、興味がありそうな企業や業界、セグメントなどをヒアリングした。情報提供をして壁打ちする中で、実はクライアントのニーズや心中を探っていたんだ。そこまではいいな?」
「はい、承知しています」
「少しだけテイストを変えて、カンプロの基本的な構造を複数の企業に使いまわしていただろう? 同じ業界や似たような事業内容でも、経営戦略によってまるで見ている方向が違う。同じような資料でも食いつくポイントがまるで違うんだ」
「なるほど、そういうことだったんですね」
「ドリーバの会社概要は覚えているか?」
「ドリーバさんは、教育事業を幅広く展開しています。学習塾、通信教育、学校教材、企業向け研修など多岐にわたります。本社は東京の新宿。各主要都市に支社があり、社員数は約1万人。30年前に上場、20年前に東証一部にくら替えし、現在はプライム市場に属しています」
「財務状況は?」
「時価総額は2,000億円前後で10年間横ばいで推移。昨年の売上は800億円、営業利益は200億円、当期純利益は100億円だったかと」
「勘所は押さえているな。じゃあドリーバがどういうM&Aをしたいと考えているか分かるか?」
「うーん、業績が横ばいになっているので、それを打ち破る何かだとは思うのですが……」と克貴は頭をひねった。
「ドリーバが注視しているのはEdTech(エドテック)だ」
「エドテック?」
「教育とテクノロジーを合わせた領域だ。似たようなものだとICT教育とか教育DXというものがある。バリュエーションを上げようとこぞってITを絡めて事業強化しようとしているのさ」
「教育はだれしも育つ過程で関わっていますもんね、重要性も高そうです」
「教育市場というのは大きいが、難しい市場なんだ。教育産業の市場規模は日本だけで約2.8兆円にのぼる。世界で見るとEdTechだけで約35兆円だ。ただ普通の教育領域ではマーケットサイズはほとんど成長していない。日本は少子化で2020年から2030年にかけては18歳以下の人口が12パーセントも減る。教育は国家百年の計でもあり、必要性や課題感はみんな理解していても、収益につながりにくい」
「だから教育の新しい領域であるEdTechなんですね」
「そうだ、そしてEdTechといっても範囲は広い。オンライン教育や授業支援、ツールなら、学習アプリ、学習管理や学校業務管理のツール及びシステムなど無数にある」
「先端技術のようなテクノロジーとはだいぶイメージが違って、身近なものなんですね」
「そう、いわゆる広範なITサービスさ」
「ドリーバはITの会社ではないですもんね、教育の大手という印象です」
「そこが今回の肝だ。カバレッジ(※5)でドリーバの部長たちと話していると、どこを強化したいかが明確になってきた」
「具体的にはどのあたりでしょうか?」
(第九章 馬車馬 後編につづく。2022/9/16更新予定です)
※都合により第九章 馬車馬 後編は2022/9/30更新に変更になりました。
※1 アカウンティング 企業会計のこと
※2 Activity Based Costing 活動基準原価計算。原価計算・管理会計において、商品の製造や販売にかかる間接費を、それぞれの商品やサービスのコストとして正確に配賦することによって、適切に管理するための計算方法
※3 ロングリスト 自社が営業を行う際に、一定の基準に照らし合わせて候補先企業をリストアップしたもの。ここではM&Aを検討している企業に対して、相手方となる候補先企業のリストのことを指す
※4 カンプロ カンパニープロファイルの略。会社概要をまとめた資料のこと。
※5 カバレッジ 自分が担当(カバー)する業界の企業に対して、買収合併や資金調達などのプロダクト提案、その他の包括的なサポートをする営業のこと
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