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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社IBD部門に新卒で入社した、小川克貴。入社後しばらくしてロンドンでの研修が始まった。宿泊施設の同泊はファンド運営会社を経営する山崎という男だった。山崎は投資銀行時代の栄光と転落、そこから起業にいたるまでのエピソードを話してくれた。話題は山崎の仕事観に移り……。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第八章 マグマのような冷血 後編
「逮捕という絶望的なところから一人ではい上がった山崎社長が言うと、説得力が違いますね」と克貴はまっすぐな目で言った。
「あのな、俺だって1人では無理だったさ。支援してくれる人がいたからだよ」
「山崎社長くらいの人になると、応援してくれる人もすごい人なんでしょうね。普通はそんな支援をしてくれる人と出会えないですよ」
「『敗北から立ち上がりたいなら、また一から始めることだ』と、もげた翼を再生させてくれたんだ。自分を待ってくれている人もいるってことに勇気をもらったよ」
「人徳がある人なんですね」
「トガミタカキさんには感謝し切れないよ。出会いはな、そうだ、ロンドンのシティーの一等地に構えた店さ。アレックスに連れて行ってもらったときに眼光の鋭いバンカーがいてな。それがトガミさんだったよ」
「トガミタカキ……?」と克貴は先ほども出てきた名前に反応した。聞き間違いかと思ったが、やはり「トガミタカキ」らしい。
「そうだ。お前は優しい顔をしているが、真剣に考え事をしているときの顔がトガミさんに似ているよ。将来有望かもな」と山崎社長は笑って言った。
「真面目な顔がですか?」と克貴は自分の表情が一層険しくなるのを感じた。
「特に皺の寄り方だな」
「トガミタカキさんっていうのはどんな方なんですか?」と胸がざわつくのを必死に抑えながら克貴は尋ねた。
「伝説のバンカーだよ。かつてシルバーマン・ウィングスの日本支社をここまでのプレゼンスにしたマグマのような男さ。今でこそ外銀の先鋒と人気も高いが、もともとシルバーマンなんて、ニッチな金融会社でしかなかったんだからな」と山崎社長はその功績に敬意を払うかのように言った。
「そうだったんですね。最初から大きな会社だったのかと」
克貴の中に浮かんだ疑念が、確信に変わりつつあった。今の自分はまさに父親のように眉間に皺が寄っているだろう。
俗字の冨にゴッドの神、高貴の貴に毅然の毅と書いて冨神貴毅だ。「貴毅」から「貴」の文字を取って、克“貴”の名前が構成されている。
「誰もが最初から大人ではないだろ。赤ちゃんの時代もある。いわば冨神さんは、いわばシルバーマンをベビーカーから戦車に乗り換えさせたすご腕の持ち主だよ」
「冨神さんは、今どこでどうしているんですか?」と克貴は父親の影を求めた。
「俺がシルバーマンに入った頃には、UBUの投資銀行部門のヘッドになっていたようだがな。今はヘッドを退いたが、顧問としてUBUに在籍しているみたいだ。冨神さんは世界を敵に回してでも必ず業務を遂行するような仕事人間だった。でも彼には2人の子どもがいたようで、そういえば、写真を見せてくれたよ。2人は母親が別で、しかもどちらとも結婚していないみたいだったな。まあバンカーならそれくらいエネルギーがある人の方が大成するんだろうなと思ったよ。子どもにも一度会いに行かなくなったら、どんどん会いづらくなっていったと言っていたような」と山崎社長はさっきまでの強いまなざしから一転して、懐かしむような目をしていた。
「冨神さんとも出会えたし、きっとこれで良かったんだろう。色んなものを無くしてしまったが、この人生はあの事件がないと生きられなかった」
キッチンの換気扇の音が遠ざかり、世界から音が消滅したような感覚に陥った。山崎社長が何か話していたが、克貴の耳には何も届かなかった。静けさの海に飲み込まれそうになった。
確信した。伝説のバンカー冨神貴毅こそ、克貴が探していた父親なのだ。バンカーで仕事人間という点も、結婚しないで別の女性との子どもがいるのも当てはまる。
スイッチを入れたかのように周囲のざわめきが一気に戻った。振動であったものが音と認識され、音が言葉となり、言葉が意味を取り戻した。
山崎社長は克貴の様子に構わず話し続けていた。
「心で見ろ。惑わされるな。時間は有限だ。挑め。はかないこの時に。それが俺から言えることだ」
「お前とはまた会う気がする。それまでに一人前になっておけよ」
今日が山崎社長のロンドン最終滞在日だったらしい。新たなビジネスの種をまきに、これから日本に戻るそうだ。
山崎社長を見送った後、克貴は一人分空いた部屋に戻った。
彼と過ごした時間はほんのわずかだったが、空洞が大きくなったような感覚に襲われた。
トレーダーとしての資質だけではなく、経営者としての視点を見せつけられた時間だった。IBDのバンカーとして進んでいくためには、経営者がどういう思考をし、何に重きを置いているかを理解しないといけないとは分かっていた。バンカーは事業会社の経営者たちにアドバイザリー業務を行うからだ。
ただその理解が追い付かなかった。元からスタートラインが違う上、レーシングカーと自転車で競争しているような絶望的な違いを感じた。
克貴は自分自身を思い返してみると、人並み以上に挑戦しているようで、他人に嫌われるのが一番怖く、何かを失う準備などもできていなかった。こんな臆病な自分に、山崎社長の次元にたどりつける要素は見当たらなかった。
往々にして社会の成功者は、想像される優秀さを超えているから成功者になっているのだ。想定内の優秀さが称賛されるのは、普通のサラリーマンの枠だからなのだ。
山崎社長に言わせれば、タスクをこなして会社にぶらさがっているだけでは一人前ではないということだろう。
もしかすると克貴は、うまくぶらさがれてすらいないのかもしれなかった。
すっかり日は傾き、中庭は暗くなり、見渡せなくなっていた。
克貴は意味もなくトレーディング本を手に取った。
パラパラとめくっていると、ファンダメンタルズ分析の章が開いた。
ファンダメンタルズ分析とは、短期的値動きではなく、経済の基礎的な要因や企業の財務データなどの本源的な価値をもとにして理論値を分析するものだ。
本源的な冨神貴毅とはどういう存在なのか、一度も見ようとしていなかったのではないか。
父親というほんの一面しか知らず、彼のビジネスパーソンとしての面を一切知らなかった。
父親の消息を知り、痕跡に触れたことで克貴の中に変化が起こっていた。
克貴は今日の話を聞いて、山崎社長は尊敬に値する人物だと思った。その山崎社長が感謝してもし切れないほど冨神貴毅を慕っている。
それがどういう意味を持つのか、分かっていても簡単に納得したくなかった。
家族を放り出すようなクズである一方で、どん底にいた人に手を差し伸べるような人徳がある。そしてそれがファンドとなって経済を動かしている、克貴が少なからず憧れた、経済を動かすということを、更に大きな規模でやってのけている山崎社長。その山崎社長を支援し再起させた経済人としての冨神貴毅はさらに大きい存在だ。
山崎社長は冷血だが灼熱のマグマをたぎらせた人だと思ったが、さらにそれを体現しているのが冨神貴毅なのではないか。
人生には幾度もボーダーが引かれる瞬間がある。そのボーダーのどちら側にいるかを、ひとさじの勇気と覚悟をもって決断しなければならない。
一度引かれたボーダーは深く刻まれる。時間が経てば経つほど、向こう側に渡るのは難しくなる。
父親、いや冨神貴毅と向き合うかどうかのボーダーは今まさに引かれようとしている。決断しなくてはならない。
克貴が父親に感じていた怒りは、ひとりよがりのドラマのように思えた。
捨てられた子どもという悲劇の主人公の立場に囚われていた。カポーティの小説『冷血』のように生い立ちを言い訳にしてはならない。
一つの事業領域を不採算で撤退していたとしても、会社全体で高収益を上げていれば、高い企業価値たりえるのだ。
たまたまノンコア事業の中心に自分がいただけなのだ、と事業にたとえて相対化しようと克貴は努めた。
経営者は、不採算事業を撤退させ、売却をするものだ。そしてそれを支えるのが投資銀行の仕事なのだ。
なぜノンコアでしかなかったのかという悲しさはあるが、克貴は投資銀行のバンカーだ、と自分を鼓舞した。
自分を捕らえていた部屋から出よう。その部屋には何もない。
次の研修日には新たな気持ちで部屋を出た。
ロンドンの早朝の空気は涼やかだった。
下を向いていたときは、ペットボトルや煙草の吸殻がへばりついた汚い石畳の街という印象だった。上を向くと世界がきれいに見えた。時の試練を経ても優麗なたたずまいをしている建築物ばかりだった。
2時間早く部屋を出て、いつもより遠回りをして歩いた。
ロマネスク建築のロンドン塔、ゴシック建築のウェストミニスター大修道院、バロック建築のセントポール大聖堂といった有名建築物だけではなく、一般の人々が日常的に使っている建物の外装も博物館のように芸術的だった。
部門ごとに分かれ、IBDはIBDだけで大教室にまとめられた。ずらーっと全席にパソコンが設置されており、分厚い教科書と問題集が置かれていた。
陽気な英国人の先生がハイタッチをするかのように手を挙げて教室に入ってきた。
「この1カ月で君たちを半人前のバンカーにするのがゴールだ! 教科書的な知識面は全部学んで帰ってもらうぞ。残り半分は実践あるのみ! それでは始めよう!」
(第九章 馬車馬 前編につづく。2022/9/2更新予定です)
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