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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社IBD部門に新卒で入社した、小川克貴。新人研修を終えるとすぐに、仕事の現場に放り込まれた。克貴はディレクターのモーガン土井に資料作成を命じられるが、間違いを厳しく指摘され、印刷も満足にできず、自信を無くしてしまう。そんな中、ロンドン研修の時期がやってきた。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第六章 煙の世界 前編
ロンドン・ヒースロー空港へ降り立つと、日本の蒸し暑さを忘れるような肌寒い風が吹き抜けた。
ロンドンタクシーに乗り込み、海外研修で泊まることになる寮の住所を伝えた。
窓の外を通り過ぎる建造物を目にして、克貴は英国にいる実感を得る。
克貴が飛行機に乗るのは物心ついてからは初めてだった。
日本語はほとんど見当たらない。英語で記された標識が克貴を未知の世界に誘うように次々と現れていく。街並みを眺めているうちに、目的地に着いた。
宿場は新設された大型学生寮のような佇まいのコンドミニアムで、高級ホテルのような豪華さを夢想していた克貴は静かに落胆した。
同時に、外資系投資銀行の海外研修というイメージから知らぬ間に期待しすぎていたことに気づいた。
チェックインを済ませ、受付で説明を聞くと、どうやらドイチェガン専用の寮ではなく、他の金融機関にも開放された宿泊施設らしかった。
克貴たちと同様に研修に来ている他行の新卒もいれば、出張で滞在している百戦錬磨の各社のビジネスパーソンもいるようだった。
克貴が通された部屋は2LDKのタイプだった。同居人がいるとのことだった。
共用部分にキッチンとトイレ、そしてシャワーがあり、奥に個室が2つある造りだった。
個室は防音が徹底されており、セキュリティー上、指紋認証でしか開かない仕組みになっている。VPNも、各社各部門に分かれて構築されているようだった。
個室は広くはないものの、ブラックの色味で統一されていた。アルミフレームのダブルサイズのベッドに、天井までの高さがある本棚、仕事用デスクが置かれたシンプルかつ機能的な部屋であった。
翌日からの研修に備え、近場での日用品の買い出しを行った。両腕にビニール袋を提げ、24本セットになったミネラルウオーターを抱えたまま部屋に戻った。
ドアを開けると、部屋の共用部に人影がちらっと見えた。風貌までは見えなかったが、とっさに拙い英語であいさつをすると、相手はほほ笑んだような声で「Good luck, boy」と部屋に消えていった。
克貴は購入した物を棚に並べ、スーツケースの荷解きを終えた。明日への興奮を抑えながら、早めにアラームをセットし眠りについた。
初日の研修の会場には、東京ドームかと思うくらい大きなコンベンションセンターが丸々貸し切られていた。湖畔の向かい側には『グレート・ギャツビー』に出てきそうな立派な建物が高々と並んでいた。
グローバルの新卒同期が1,000人近く集まっており、見る人見る人が賢そうで、強そうに見えた。男性たちは筋骨隆々で、女性たちも克貴よりも背が高く体格もしっかりしており、克貴は居心地の悪さを感じた。
きらきらと陽光が差す廊下を進むと、数千人が収容できるホールが見つかった。研修のオープニングはこの大きなホールで始まるのだ。
座席指定があり、日本支社のメンバーは1カ所に集められていた。
見知った顔を見つけただけで克貴は心から安堵した。高嶺が前方の席に陣取っており、普段はそこまで話さないのに、今はいち早く話しかけたかった。
「高嶺、すごい会場だね」と克貴は声をかけた。
「俺たちは、こういう世界で生きているんだな」と普段は冷静な高嶺も少し高揚しているようだった。
前方には映画館よりも大きなスクリーンが迫り出しており、画面には「New Graduate Global Training」と威厳のあるデザインで描かれていた。聞いたことはないが、思わず体が動いてしまうようなインストゥルメンタルの音楽が会場を支配していた。
スモークがたかれ、その中に光が浮き上がっている。新卒たちの熱気が大きな煙となり具現化しているようだった。
赤、青、紫、緑、黄、橙。さまざまな色の絞られた光の筋が上空を照らしていた。ちょっとした音楽フェスのような雰囲気だ。
高嶺は目を細めながら大きく会場を見渡すと、すっと視線を手元に移した。
「研修中は仕事のメールを見なくてもいいって言われていたけど」と克貴は、高嶺が仕事用のメールソフトを開いていることを指摘した。
「案件のメールだ」と高嶺は克貴を見ずに言った。
「あれ、今も案件をやっているの?」と克貴は焦りを隠すように言った。
「いくら研修中は案件から外れていいと言われていたとしても、情報をキャッチアップしないのはプロ意識に欠けるだろ」と高嶺は小ばかにするような視線を克貴によこした。
克貴はあまりの正論を前に言葉に詰まった。
「もう案件に入っているなんてすごいよね。同期の中では高嶺だけだ」と克貴はおもねるように言った。
「俺は最速でMDを目指しているからな」と高嶺はメールをチェックしながら言った。
MD、つまりマネージング・ディレクターは高い実績を上げ、外資金融の世界を勝ち抜いた実力者しか昇り詰めることができない最高位の役職だ。社長や副社長もMDというタイトルを冠されている。アナリストの段階から上を目指すことを宣言できる高嶺の強さを前に、克貴は無性に胸をかきむしりたくなった。
突然音楽が止み、会場は暗くなった。分散していた光量が前方に集まった。
談笑していた空気が引き締まり、瞬く間に静寂に包まれた。
グローバルのCOOが登壇し、開会のあいさつを述べた。次に顎のあたりで切りそろえたボブスタイルの女性広報部長がスピーチをし、長いひげを蓄えたヨーロッパ統括ヘッドの講演へと続いた。
本来ならありがたいだろう内容の演説だった。しかし正直言って克貴の興奮は開会の静寂時から急降下していた。
COOも広報部長もヨーロッパ統括ヘッドも、見知らぬおじさんおばさんだった。偉い人なのは分かる。そして並々ならぬ実績を積み上げてきただろうことも、怖ろしく高い能力を持っているだろうことも理解している。とはいえ、高まった期待は下降曲線をたどり、HPで見たことがあるはずのCEOのスピーチを聴いても変わらなかった。英語が一部聞き取れなかったからかもしれない。もっと刺激が待ち受けていると思っていた克貴には、長々とした話は退屈に感じられた。
「しかめっ面ね。眉間に皺が寄っている」と克貴はエレンに指摘された。
克貴はその言葉に激しく嫌悪感を覚えた。
幼いころの克貴は機嫌が悪くなると、眉間に寄る皺が父親に似ていると言われていた。それは克貴には認めがたい部分だった。
父親は母を捨てて出ていった。父は一般的な結婚観の真逆を行く人間だった。真逆には底がなかった。母とは籍は入れず、他の女性との間にも子どもをもうけていたようだった。さらに他にもそういう女性がいたのかもしれない。
母が、他の女性とも籍を入れていないことを喜んでいたのが痛々しかった。
克貴の「貴」という漢字も、父親の名前から一文字とっている。そのことも、父親の血が流れていることを突き付けられているようで汚らわしかった。だから克貴はカツと呼ばれたがった。
父親に似て、浮き上がるように眉間に皺が寄る自分には、彼と同じ血が流れているのだ。そう自覚する度に気持ちは落ち込んでいった。
2日目からはオリエンテーションが始まった。
昨日感じた退屈さは受け身だったからだと、次の日に気づかされた。
オリエンテーションという名目で、最初の1週間は全部門が入り乱れて研修をすることになっていた。研修というより金融という題材を使ったアクティビティに近い。いくつものアクティビティが開催された。
5人1組のグループに分けられ、チーム戦を行う。世界的なエリートたちと同じ場に立っているのだという高揚感で踊りだしそうだった。
克貴のグループは、プリンストン大学、オックスフォード大学、ロンドン・スクール・オ・ブエコノミー(LSE)の出身者で構成されていた。そしてもう一人がエレンだった。
初めのアクティビティは、商業銀行員になりきるゲームだった。
束になったタームシートを基に時間内に融資審査を通すか通さないかを議論し、ApproveかDeclineかの判を押していくものだった。
克貴はどうやって進めるべきか様子を見た。こういった場合には、真っ先に目の前の課題に飛び掛からない方が良いと経験則で学んでいた。メンバーの挙動を見るのは面白かった。各々違う動きを自由にし始めるのだ。
(第六章 煙の世界 後編ににつづく。2022/6/24更新予定です)
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