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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社IBD部門に入社した、小川克貴。華やかな入社式や新人研修を終え、仕事の現場に放り込まれた。克貴はディレクターのモーガン土井に資料作成を命じられるが、細かく間違いを指摘される。その上、モーガン土井が克貴を「駄目」と言うのを聞いてしまいショックを受けながらも、何とか資料の修正を終えた。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第五章 幻想のロンドン 後編
資料の提出後、モーガン土井からすぐに詰められなかったことで克貴はほっと胸をなでおろした。
安心したのも束の間、克貴はモーガン土井に呼び出された。
「資料はあれでいいから、8部印刷してこい」とモーガン土井は表情を変えずに言った。「あ、はい。すいません」
何も悪いことをしていないのに、モーガン土井の威圧感につい謝ってしまう。
「それもな。『すいません』なんて言葉も、なんで学生のうちに捨てて来ないんだ?」
モーガン土井の鋭い目ににらまれて克貴は心臓がギュッと締め付けられるようだった。
「申し訳ありません。承知しました」と克貴は逃げるように印刷に向かった。
先輩たちの作っていた資料を参考にして、カラーで1ページに1スライドで印刷した。モーガン土井の手元にあった資料が両面印刷だったので、同様にプリントされるように設定する。細かい体裁で怒られないように、克貴は細心の注意を払った。
「モーガンさん、お待たせいたしました。資料を8部印刷して持ってまいりました」と克貴は若干の緊張とともに提出した。
モーガン土井はおもむろに受け取り、一瞥すると、資料を克貴に突き返した。
「なんでホチキスでとめていない?」
「申し訳ありません、すぐにとめてきます」
克貴は打ち寄せた波が泡を立てて引くように、すぐさまその場を去った。かなり気をつけたつもりだったが、初歩的なことを注意されてしまった。自分が情けなくなる。
秘書にホチキスの場所を聞き、備品置き場へ向かった。
そこには先客がいて、高嶺がディレクターと雑談をしていた。ラックにもたれたディレクターが、大きな手振りで高嶺の肩口を激励するように軽くたたいていた。
高嶺が好感度の高そうなビジネススマイルを作っていたことに驚きながらも、克貴はそのソツのなさをうらやましく思った。
そそくさとホチキスを手に取り、書類の角をそろえてとめていった。
「モーガンさん、お待たせいたしました」ときれいにとめた資料を提出した。
だが、モーガン土井は今度は受け取りもしなかった。
「なんで短辺とじにしているんだ。普通長辺とじだと考えたら分かるだろ」とモーガン土井は半目で眉をつり上げながら詰った。
「というか、印刷機でやればいいだろう。時間をむだにするな」
克貴は印刷機でホチキスどめができることすら頭から抜け落ちていたことを恥じた。怖い上司の前で焦ると普段できることもできなくなってしまう。
「申し訳ございません。すぐにやり直します」
ようやくOKがもらえたときには、情けなさが疲労を上回っていた。
克貴は今まで自分が正しいと信じていた成功法則を捨てなければいけないと思った。
大学は、高校までとは違って、答えのない世界だった。そして他者に頼らず、自分なりに考えて、行動していくことで充実していった。自分で考えて答えを出すことが優秀とされていたように思う。逆にいうと、人の言われた通りに、聞いた通りにやるのは、凡庸と同義だった。
しかし、社会人になってからは不文律が多すぎて、自分で考えても答えから遠ざかることがある。慣習しかり、常識しかりだ。そういった無数のコードに対しては、そもそも前提が違う可能性を想定し、まず事細かに確認する。自分なりに考えた業務フローを上司に伝えてすり合わせる。単純な間違いをする可能性を事前には確認して全てつぶすことが必要なのだろう。
想像力を働かせただけでは誰も評価してくれない。正確であること、成果を出すことが全て。そういうものだ。
克貴は深く考えなくてもできる英語の翻訳作業をしながら、大学生と社会人の違いを考えていた。単純な作業のときには思索にふけってしまう。
きっと克貴とドイチェガンの人たちは違う言語を使っているようなものなんだと思う。同じものを指しているように見えても、捉えている意味も違えば、解釈の範囲も違うことがあるのだ。
ホチキス一つにしてもそうだ。当然ホチキスのとめ方なんて法律で決まっていないし、会社によっても様々な解があるだろう。
相対的に見れば正しさはどちら側にも宿っているのだ。しかし、会社という組織上、ドイチェガンの経験豊富な人たちの解釈が正しいとされる。
ここでの“普通”をインストールして、ホチキスでとじるように常識として固定していないと生きづらいのだ。そういう世界に身を投じたのだと克貴は改めて思った。
時間がかかっていた翻訳も意識的にスピードを上げることでようやく終わりが見えてきた。
翻訳作業を終えて、顔を上げると、働いている同僚や上司の姿がよく見えた。
若手だけでなく、40代になっても夜遅くまでバンカーたちは働いている。
町田さんはMD(マネージングディレクター)と税務の議論をしていたかと思えば明るく談笑をしている。MDはクライアントの御しにくさについて愚痴っているが、どこか充実した表情を浮かべている。
町田さんはMDと別れると、にやにやしながら克貴に近づいてきた。
「カツ、えらく絞られたみたいだな。一仕事終わったみたいだし、これから一杯行くか」
「ぜひ行きたいです」
町田さんは、ビル前の大通りで慣れた様子でタクシーを拾った。
「町田さんはどれくらい飲むんですか?」
「昔は六本木がひっくり返るくらい飲んだがな、最近はかわいくなったさ」
夜の街に光るネオンは目に飛び込んでくるようでまぶしかった。
「まさかプラチナカードですか?」
「毎年のように利用額上限が勝手に上がっていくから恐ろしいよ」と町田さんは笑って言った。
「勝手にですか」と克貴は苦笑いした。
「バンカーには2種類いる。貯金がたまる人間と、一生たまらない人間だ。俺はあえてためない人間だ」
「それって町田さん第3の人間じゃないですか」と克貴は軽く突っ込みをいれた。
「はは」
「あえて貯めないっていうのは、お金は使えば使うほど入ってくるからってことですかね?」
「よく金持ちが言う台詞だな。金は天下の回り物っていうからな。経済はお金を使った流通量そのものだし、要はマネーサプライだからな。まあそれはうそだよ」
「えっ、でも町田さんは使っているけどお金ありますよね」
「何にでもお金を使えばいいってもんじゃない。総資産というのは原資産に投資効率をかけたものだからな。お金を使えば原資産が目減りするだろう。ただ散財しても単にお金がなくなるだけだろ」
「それはそうですね」
「話は単純さ。リターンのある投資的なお金の使い方になっているかさ。同じ派手な飲みでも、無目的な虚栄心でシャンパンを開けまくることと、シャンパンを開けて店の人とのつながりを作って接待に活かす目的を持ってやるのとでは、同じように見えて全く違う」
「意図の有無なんですね」
「そうだ。そして今からの飲みはカツという有望な後輩に期待値をかけたリターンが馬鹿高いはずの投資さ」と町田さんはハッとするようなウインクを投げた。
町田さんに連れて行ってもらったのは、ザ・倫敦という西麻布の店だった。
明かりがほんのりと揺らめく地下1階へ降りた。
艶めいたウォールナットのテーブルに革張りのチェア、上品に光っている調度品。
奥からは生演奏の心地よいメロディーが流れてきている。
店でくつろいでいる人たちの顔は見えず、ほど良い距離感が保たれている。
すべてが幻想的だった。これが世にいう外銀的な華やかな世界なのかと克貴は実感した。
学生時代に行っていた居酒屋と比較してはいけないのだろう。
値段の書いていないメニューに戸惑い、何を頼めばいいのか分からなかった。
その様子を見かねた町田さんが同じシャンパンを頼んでくれた。
「町田さんに相談しながら、何とか資料作成ができました。ありがとうございました」
「まずはめでたい。祝杯だな」とグラスを合わせ乾杯した。一筋の光が差すような透明な音が鳴った。
「ロンドンの研修から帰ってきたら、取引先の大企業に一緒に付いていかせてもらえるみたいだぞ。良かったな」
「ほんとですか。何とか認めてもらえたんですかね。まだまだミスが多いので頑張ってキャッチアップします」
「誰でも最初はミスをするものさ。バンカーには2度目はないだけさ」
「厳しいですね」と克貴が言うと町田さんは生暖かく微笑んだ。
いつの間にか会計は終わっていたようだった。町田さんは店の入口を素通りしてそのまま地上に出た。
「次、会うのはロンドンから帰ってきたときだな。面白い土産話を期待しているぞ」と町田さんはタクシーを止め、「これで帰りな」と克貴のポケットに何かを入れた。
忍ばせてくれた一万円札をなでながら、シートにもたれた克貴は、酔いが回るのを感じていた。
(第六章 煙の世界 前編につづく。2022/6/10更新予定です)
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