
クロスボーダー~外資系若手バンカーの葛藤~ 第五章 幻想のロンドン 前編
2022/05/13
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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社IBD部門に入社した、小川克貴。華やかな入社式や新人研修を終え、とうとう仕事の現場に放り込まれた。克貴はディレクターのモーガン土井に呼び出され、資料作成を命じられる。ところが出来上がった資料の間違いを細かく指摘され、自信を無くしてしまう。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第五章 幻想のロンドン 前編
印刷した多量の資料が机に散らかり、デュアルディスプレイーにはいくつものPDFファイルが開かれている。連日のハードワークに、克貴は気力と体力の限界を迎えていたが、気づかないふりをしていた。
モーガン土井に提出する営業用資料の修正は完成間近だった。
克貴は突然の眠気に襲われた。目頭や手のひらの付け根を押すも、眠さに抗えず押し流されそうになる。
夢と現実が入り交じり、イギリスに本社を置く企業を調べていたはずの克貴はロンドンの街を歩き、荘厳な建造物の前に立っていた。どこか見覚えがあるような企業ロゴがちらりと見えたと思ったら、いつの間にか建物の最上階に移っていた。重厚な会議室に、強面の外国人バンカーたちが集っている。喧々囂々(けんけんごうごう)の議論の中心にいたのは、壮年にも熟年にも見える日本人だった。鋭い目つきで場を支配している。その視線に射抜かれた克貴は、なぜかうずくような懐かしさを感じた。
刺すような視線を放つ顔には表象が見当たらない。その顔は克貴の目の前に大きく近づいたかと思うと、残酷にも肩を叩かれた。
会議室は雲散霧消した。目の前におぼろげに映るのは克貴のデスクだった。
「ねえ大丈夫? うなされていたみたいだけど」と克貴の肩に手を置いたエレンがこちらを覗き込んでいた。
「妙に現実感のある夢を見ていた気がする」と克貴は目をこすりながら言った。
「どんな? 怖かった?」
「ロンドンにいたんだ。どうやらドイチェガンではない投資銀行の中にいて、責められていた気がする」
「もうすぐロンドン研修があるからじゃない? 冗談だと思うけど、成績悪かったらクビだとか脅されているもんね」
「そういえば7月からロンドン研修か。まだ先だけど」
「あっという間に、大英博物館のロゼッタストーンの前にいるわよ。ナショナル・ギャラリーにも行きましょう」
「どれだけ観光する時間があるんだろう。勉強もしないとだからね」と克貴はあくびをこらえながら言った。
「克貴は真面目すぎ。せっかくロンドン行くんだから楽しまなきゃ」
エレンの声が上機嫌になっているのに反して、克貴の動きは緩慢になり、またまぶたが落ちかけていた。
「オフィスで眠るのはあんまりよく思われないわ、コンビニにでも行って休憩する?」とエレンは少し耳元によってささやいた。
「ありがとう。でも、あまりに眠いから、ちょっとトイレに行って仮眠するよ」
そう言うと克貴はふらふらと立ち上がり、手洗い所へ向かい、一番奥の個室へ入った。
5分後にアラームをセットし、便座のふたを上げ、服は下げずに座る。左手で頬杖を付くことにより顔を固定し、左肘を右手で支える。
早くも克貴が身に付けた処世術の一つだ。どうしても眠いときは、こうしてトイレで仮眠を取り、切り換えて仕事に戻るのだ。
小鳥が耳をつつくようなアラーム音が鳴り響いた。それでも起きることが困難だった。疲れがどっとのしかかってくるようだった。
しかし、すぐ仕事に戻らねばならない。立ち上がろうとしたとき、個室の外からモーガン土井の話し声が聞こえてきた。
「今年の1年目は優秀ですな」とモーガン土井と話している相手が言った。高嶺の上司であるディレクターの声だった。
「そうですか? そちらは高嶺くんがアサインされているみたいですね」
「彼は覚えも良く、ミスも少ない。戦力になりそうです。モーガンさんの方は、確か小川克貴くんでしたな?」
「駄目ですね。私たちが若手の頃だったらハジかれていますね。まったく、昔と比べてぬるくなっていますよ」
「まあまあ、これから成長しますよ。成長が見込めなかったら外せばいいだけですから」
彼らの声が遠くなり、克貴は静寂に取り残された。
背筋が冷え、身体に感じていた疲れも凍てついてしまうようだった。しばらく克貴は個室から出ることができなかった。
このままだと、アサインされたチームから外されてしまうかもしれない。
資料の修正はおおむね終わっており、そのまま出そうかと思っていたが、恐ろしさにさいなまれた。期限まで時間はほとんどないが、再度チェックし、町田さんにも確認してもらって出そうと決めた。
すでに眠気は吹っ飛んでいた。デスクに戻り、パワーポイントを確認すると、カンマや全角半角など指摘された細かいところの反映が数箇所抜けていた。まだミスがあったのかと内心焦りながらも、あとは最終チェックで町田さんに見てもらえばと一息をついた。
「町田さん、お疲れさまです。今、よろしいでしょうか?」と克貴は町田さんに声をかけた。
「おうカツ、どうした? 合コンにでも誘ってくれるのか?」と町田さんはいつも通り軽口をたたいた。
「いえ、モーガンさんに出すこちらの資料のチェックをしていただきたくて」と克貴は印刷物を差し出した。
「分かった。じゃあ今すぐエクセルのデータを送ってくれ」と言い終わらないうちに、町田さんは資料に赤線を入れていた。
この切り換えのスピードが一流のバンカーたるゆえんなのかもしれないと、克貴は舌を巻いた。そそくさと席に戻り、エクセルのファイルをメールで送る。
町田さんのデスクへ戻り、「エクセル送りました」と報告すると、
「オッケー、全部見たぞ」と量子コンピュータ並みの速度で町田さんはレビューを終わらせていた。
「え、もう見終わったんですか?」と克貴は驚きを隠せないでいた。
「当然さ。ミスする場所は大体決まっているからな、ほら赤線を入れておいたぞ」と町田さんは資料をめくりながら一つ一つ説明してくれた。
「資料の修正は以上だが、財務数値のエクセルで間違いがあったぞ。LTMで表示すべきところをFYで計算してしまっている。投資銀行で働くなら数字は絶対間違えちゃいけないぞ」
「すみません。LTMやFYがよく分からないのですが、教えていただけませんか?」
「LTMはLatest Twelve Monthsの略で、過去12ヶ月のデータを使うってことだよ。要は、年度ごとの有価証券報告書を参照するのではなくて、直近の四半期報告書を基に数字をたたかなければいけないってことさ」
「不勉強ですが、初めて聞きました……」
「ちなみにFYはFiscal Yearで会計年度の意味だから覚えておけよ。あんまり使わないが、Calendar YearでCYってのもあるぞ」
「勉強になります。ありがとうございます」
「オッケー、じゃあエクセルとパワポを直して、印刷して最終確認をしてから、モーガンさんに出すんだぞ」
「かしこまりました。町田さんに見てもらって良かったです」と克貴は張りのある声で言った。
真っ赤な洗礼の果てが、印刷機から小気味良いテンポで吐き出される。克貴は1項目ごとにチェックマークをつけ、修正が完了しているかを確認した。
町田さんに見てもらって、自分でも確認して、正直今度こそは自信があった。
モーガン土井にはメールでパワーポイントと使用したエクセルを送り、印刷物をデスクへ持参した。
「モーガンさん、お忙しいところ失礼します。少しお時間よろしいでしょうか?」
克貴が言い終わらないうちにモーガン土井は振り向いた。
「資料の修正が終わりましたので、ご確認いただけますでしょうか。よろしくお願いいたします」
「ちゃんと完璧か確認しただろうな? 二度手間をかけさせるなよ」とモーガン土井は冷たい表情でため息をついた。
「前回ご指摘いただいたので、今度は大丈夫かと思います」と克貴は弱々しく答えた。さっきまでの自信はちりのように粉々になって飛ばされていた。先ほどのトイレでの会話が思い出される。
「見ておく」とモーガン土井は手短に答えた。
(第五章 幻想のロンドン 後編につづく。2022/5/27更新予定です)
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