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〈前回までのあらすじ〉
外資系投資銀行のドイチェガン証券株式会社IBD部門に入社した、小川克貴。華やかな入社式や新人研修を終え、とうとう仕事の現場に放り込まれた。そんな中、克貴はオフィス内にあるコーヒーショップで、幼なじみの葵と再会する。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第三章 トゥームストーン 前編
仕事は考えていた以上に厳しかった。なにせ経験もないのにいきなり現場に放り込まれるのだ。
カバレッジ(※)の営業資料作成にアサインされ、先輩の町田さんとバディを組む形で、なんとか新しい仕事に取り組み、作業のやり方を覚え、できるようにしていく。ずっと二重跳びをしているように激しくタスクを覚え、こなすことの繰り返しだった。
十分に教えられてもいないのに、できる前提で仕事を振られ、新卒や1年目だという言い訳は許されず、訳も分からないまま必死に食らいつき、忙殺されていく……。
「克貴、ちょっと来い」、と町田さんから呼び出しがあった。
町田さんは指をくいっと動かし、歩く方向を示した。克貴は慌てて、ノートとペンを手に取り、町田さんの背中を追った。
ミーティングルームのガラス戸を開けた。中はパーテーションで仕切られている。
壁側には、まるでスポーツ強豪校の表彰棚のように、大小さまざまなトロフィーや盾が並んでいた。光を放つクリスタルのものもあれば、金属製で鈍い輝きを発するものもある。
どの盾にも、大企業とドイチェガン証券のロゴ、巨大な金額が印字されていた。
克貴が目を奪われているのを察したのか、町田さんは咳払いをした。
町田さんは1つの奇妙な形をした盾を手に取って、克貴の前に置いた。まるでなにかの現代美術のモニュメントのようだった。
「このトゥーム・ストーンは俺が作ったものだ」と町田さんは得意気に言った。
「すごそうですね。この盾は何の意味を持つものなんですか?」
「初めての案件で俺がデザインしたんだ。案件が無事ローンチされるとこういうトゥームをアナリストが作るんだ。ちなみにクレデンと呼ぶ人もいるな」
「トゥームにクレデン?」と克貴は耳慣れない言葉に戸惑いを隠せなかった。
「トゥームは墓石って意味だよ。西洋の墓みたいな形をしているだろ。クレデンはクレデンシャルの略で、要は証明書ってことさ」
「墓石の形をした証明書ってなんだか縁起悪くないですか?」
「メモリアルと言い換えたらどうだ?」と町田さんはしたり顔で言った。
「なるほど。海外では墓場を、メモリアルパークと呼びますもんね」
――墓石という言葉に、克貴の胸はちくりと痛んだ。
暗く、よどんだ色を思い出した。光量の沈んだ景色だった。
亡くなった母には立派な墓を建ててあげられなかった。当時学生だった克貴はただただ無力な存在だった。
大学こそ多少はうらやまれるようなものだったかもしれないが、社会に入る前の学生には何もない。学歴というのは社会で活躍してはじめて効力を発揮する。仕事で成果を出した上でこそ、高学歴が、優秀さの証明になるだけなのだ。
大学が克貴を助けてくれるなんてことはなかった。荒涼とした感情に克貴は取り込まれそうになる――。
「ほら、上に刻まれているのがクライアント企業名だよ。下には主幹事であるドイチェガンの名前が刻印されているだろ。そして無事エグゼキュートされた案件の額が250億円だよ」と町田さんはトゥームストーンを指さしながら言った。
「25,000,000,000円……。ゼロが多すぎて、金額がよく分からなくなりますね」と克貴はほうけた調子で言った。
「おいおい、こんな額は少ない方だぞ。こういった桁の数字をぱっと見て概観を捉えられるようにならないと、バンカーとはいえないぞ」と町田さんは人差し指を左右に振りながら言った。
「どうやったらいいのでしょうか?」
「簡単さ。カンマで見ればいい。カンマ1つで千、2つで100万、3つで10億、4つで兆といった具合だ」
「でも町田さん。普段は、万、億と4桁ごとに数えているのに、3桁ごとにカンマを付けないといけないのは慣れないですね」
「ビジネスは欧米がスタンダードだからな。英語ではサウザンド単位で数えるだろ?」
「そうですね。外資系ですし、合わせないといけないですね」
「数字には必ずカンマをつけなきゃいけないからな。これは外資系だとかは関係ない。日系の証券だろうが銀行だろうが金融は全部な。ちなみに1年目の最初は、書類にカンマ抜けていて指摘されるのは“あるある”な」と町田さんは快活に笑った。
克貴は震える思いがした。きっとこの先もこういった小さな無知が自分に傷をつけていくのだろう。先輩たちからすれば当たり前で、でも克貴からすれば当たり前ではないことの連続なのだ。
そのたびに、どれだけの人が町田さんのように気さくに教えてくれるだろうか。
ときには知らないことに驚かれ、さげすまれ、あきれられ、知らぬ間に評価を落としていくことになるのではないか。
知っていて当たり前のことを、あけっぴろげに知らないと言うのははばかられた。自尊心が傷つくこと以上に、知らないことを認めて相手の中の自分への期待が崩れてしまうのが怖いのだ。
仕事以外でなら笑ってやり過ごせても、入社直後で、しかも少人数の1年目の中で、いきなり無能のレッテルを貼られてしまう恐怖があった。人数が少ないからこそ、マイナスの形でも目立ってしまいかねないのだ。
「なあ、いい形をしているだろう」と町田さんはトゥームストーンを自分の赤子のようになでながら言った。
「ジョナサン・ボロフスキーの作品みたいでかっこいいですね。圧倒的な存在感なのに作りは極めて薄いですし」
「カツはいい目をしているな。クライアントがこれからも大空を羽ばたけるように、という意味を込めた。もう一つの意味としては自戒だな」
「自戒ですか? あまり想像できないですね。町田さんが反省するようなことあったんですか?」
「俺も昔は尖っていた。その時の俺と比べたら、カツたちなんて本当にかわいいものだよ。俺なんか新卒らしくなくて、クライアント先でも上司が発言する前に自分の意見を披露したくらいだからな。それも議論の中で勝手にクライアントに本来なかった提案までした。」
「すごいですね。最初からめっちゃバリュー発揮していますね」
「まあ、会議で発言しないやつはバリューなしとされる文化だから、ある程度は許容されていたんだが、ある時やりすぎてしまったんだ」
「町田さんのやりすぎは怖いですね」と克貴は唾をのんだ。
「自分が正しいと思って、間違った社会を洗濯してやろうなんて思い上がりだったよ」
「坂本龍馬みたいですね」と克貴は言った。
「いや、何も分かっちゃいなかった。M&Aのバイサイド案件だったんだが、なかなか進まなくてな。クライアント企業の中の稟議を通すのがあまりにも遅くて。3週間もかかると言っていたんだ。その間に競合企業に横取りされるかもしれないと考えるとそのスピード感覚にいら立ってしまって。クライアント先で遅さを強く指摘したんだよ」
町田さんは整った顔に苦い表情を浮かべていた。
「やばそうですね」と怖いもの見たさに克貴は続きを促した。
「そしたら、その人たちは根回しに時間がかかるから、仕方がないと言っていたんだよ」
「それでどうしたんですか?」
「やる気がないのか、根回しを言い訳にするな、決断できる立場にありながら手をこまねいているだけじゃないか、部長のくせにそんなの猿にだってできるだろと、無茶苦茶なことを言ってしまった」と町田さんはこれ以上ないくらい顔をゆがめた。
「うわ、先方はめちゃくちゃ怒ったんじゃないですか」と克貴は青ざめた。
「なあ、根回しって悪いイメージないか? 風通しの悪い腐った企業のやることみたいで」
「正直、ありますね」
「でもな、これは必要なことだったんだ。経済合理的に正しいとこちらが思っていることも、立場や視点が変われば、ベストでない場合もあるんだ。投資銀行はあくまでファイナンス目線だ。主に株価視点でベストな提案をする。だが、買収先と統合される事業部からしたらどうだ? 今まで進めていた計画や努力が水の泡になってしまうように感じるだろう。そればかりか自分たちは追い出されるように思ったかもな。別の事業部からみたら、自分たちは期待されていない部署のように映っているかもしれない。経営陣に放置されている感覚も、もしかしたらあったかも。そういう関係者にすべて頭を下げて、時間をかけて、丁寧に説明して回っていたんだよ。納得してもらえるように、会社に不満がたまって分裂しないように、一丸となってプロジェクトが進められるように」
「確かにそこまで考えられていなかったです」
「当然そのあとは上司にひどく絞られたよ。案件も怒号とともに外されかけた」と町田さんは笑って言った。
「普通外されますよね」
「でも先方の担当の方が上司に掛け合ってくれてな。許してくれたよ。大企業で上にいるだけあるよ。自分たちの当たり前と思い込んでいたことを若い人に率直に指摘してもらえて、客観的な視点を持つことができたと言ってくれてね。できた大人だよ。投資銀行の中には事業会社のことを見下す人もいるが、俺はそうは思わない。それで改心したんだ」
「町田さんは投資銀行はサービス業だという認識を持つべきだ、と教えてくれましたもんね」
「俺らはバルジ・ブラケットなんて仰々しい括られ方もするが、投資銀行はあくまでもクライアントの黒子だよ。自分たちがグローバル・エリートだなんておごっちゃいけない」
「はい、心に刻んでおきます」
町田さんは思い出深いだろうトゥームを感慨深く見つめ、顔を上げた。
「そうそう、呼び出したのはカツに伝えることがあったからだ。前置きが長くなりすぎたな」
「はい、何でしょう?」
「おめでとう。本格的な仕事にアサインされたぞ。モーガン土井さんのカバレッジ企業に対する提案資料作成だ」
「ありがとうございます。本当に入社後すぐに実践なんですね」と克貴は言いながら、胸が高鳴るのを感じていた。全身の血液の流れが分かるようだった。
「細かい指示はこの後、モーガンさんからあるはずだ。気合入れていけよ」
「承知しました。頑張ります!」
「提案から案件につなげられるといいな。早く案件に入ってローンチさせて、カツの想いを乗せたトゥームを作れるようにしろよな」
そう言うと町田さんは立ち上がり、ミーティングルームのドアを開けてくれた。今度からは自分がさっと扉を開けられるようにしなくてはと克貴は思いながら、ドアに近づいた。
同時に克貴は、自分が乗せるべき想いとは何だろうかとふと考えた。
部屋を出ると、さっきまでと空気が違うように感じた。張りつめた見えない気体の圧が押し寄せてくるようだ。少しだけ、この会社の一員になれた気がした。
席に戻ってからも克貴は、そわそわとペンを持ち替えずにはいられなかった。
※カバレッジ 自分が担当(カバー)する業界の企業に対して、買収合併や資金調達などのプロダクト提案、その他の包括的なサポートをする営業のこと
(第三章 トゥームストーン 後編につづく。2022/4/1更新予定です)
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