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このゲームを世に送り出したのが、株式会社ポケットペアの代表取締役社長・溝部拓郎さんだ。『クラフトピア』は、無類のゲーム好きである溝部さんが面白いと思う要素を詰め込んで作られた。
だが溝部さんは、ゲーム開発者として一直線のキャリアを歩んできたわけではない。新卒で入社したのは外資系投資銀行のJ.P.モルガン。その後開発に携わったのも、人生のストーリーを投稿するウェブサービス『STORYS.JP』、仮想通貨取引所の『Coincheck』と、ポケットペアを起業するまでゲームとは縁遠いキャリアをたどっている。
一見すると、遠回りにも感じるキャリアを歩んできたのはなぜか。そこで得た経験は、現在のゲーム開発にどのように生かされているのだろうか。【鈴木陸夫、南部香織】
1. ウェブサービス制作で学んだのは、ユーザーの声を取り入れることとスピード感
2. 「勝ち筋が見えなくても」ゲーム制作をしたい。それは戦略的ではない選択だった
3. 幼い頃からゲームばかり。小5の自由研究も『Visual Basic』の自作ゲームだった
4. 自分よりも優れた開発者がいる。夢を諦めさせた学生時代の2つの出会い
5. 遠回りしたからこそ今がある。技術とビジネス、両方の観点を持つメリット
ウェブサービス制作で学んだのは、ユーザーの声を取り入れることとスピード感
――溝部さんが率いるポケットペア制作のゲーム、『クラフトピア』について教えてください。
溝部:『クラフトピア』は、農業や建築、ペット飼育もできれば、ダンジョンを探索したり戦ったりもできるクラフトゲームです。私が面白そうだと思ったことを全部反映させています。
また、早期リリース版から見つかったいくつものバグをユーザーが楽しんでいるので、むしろ積極的に正式な仕様として採用してきました。
――バグを取り入れるというのは異例ではないでしょうか。
溝部:そうですね。一般的なゲームは、基本的にクリエイターが意図した通りにユーザーが遊ぶという設計になっていると思います。ユーザーの反応を見ながら開発方針を決めるのは、ウェブサービスのやり方に近いです。それは、今まで私が関わったウェブサービスから学んだことです。バグの発生を承知で、スピーディーにリリースしたのも同様です。
なるべく早くトライし、失敗もし、ユーザーからのフィードバックをもとに改善する。そのことで、成功までも早くたどり着けると私は考えています。
また、『クラフトピア』では最先端のαバージョンのライブラリも多く使っていますが、それも未知のバグが発生しやすくなるので、通常のゲーム開発ではあまり行われません。コードの書き直しが大変でしたが、一方で技術的限界が分かり、組織に知見がたまるという良い面もありました。
――ウェブサービス制作に関わった経験で、ゲーム作りに生きているのはどんなことですか。
溝部:学生時代からポケットペアの創業期まで、かなりの数のウェブサービスを作ってきました。ウェブサービスは、伸びている分野のやり方を徹底的に真似することが基本だと考えています。結果、需要のあるところでビジネスをすることが大事だと分かりました。
当然のように聞こえるかもしれませんが、「面白いゲームを作りたい」という気持ちが先行しがちなゲームクリエイターの中で、その観点を持っている人はそう多くはないでしょう。ポケットペアで制作したゲーム第一弾『Overdungeon』と第二弾の『クラフトピア』が、続けて一定の成功を収めているのは、私が市場を意識しているからだと思います。
「勝ち筋が見えなくても」ゲーム制作をしたい。それは戦略的ではない選択だった
――ゲーム開発で活躍されている溝部さんですが、新卒では投資銀行のJ.P.モルガンに就職しています。
溝部:はい。同じだけ働くなら時間あたりの収入が多い方がいいだろうと考えて、投資銀行や外資系コンサルを対象に就職活動をしました。その中でたまたま最初に内定が出たのがJ.P.モルガンでした。
J.P.モルガンには、テクノロジー職として入社し、自社の会計システムの開発に携わることになりました。本社のシステムをベースに日本の制度に合わせたものを独自に作るという仕事です。
――結果として、3年で退職していますね。
溝部:J.P.モルガンには金融業界のプロフェッショナルが大勢いて、そういう意味では素晴らしい環境でした。それでも3年で退職したのには二つ理由があります。
J.P.モルガンはどちらかといえば、いわゆるレガシーで、安定運用を重視する技術を採用していました。もちろんそれは合理的な選択なのですが、自分としてはやや物足りなさを感じていたんです。誤解を恐れずに言うと、ウェブ系サービスの方が開発にスピード感があり、技術もどんどん改善されるので面白いと感じていたんですね。それが一つ目の理由です。
もう一つは、本格的な起業を考えていたからです。当初はJ.P.モルガンで海外へ行き、力を付けてからと考えていました。しかし、同期が何人か退職し起業していくのを見て、焦りを感じてきたのです。
3年目のころには、すでに同期から構想を持ち掛けられた『STORYS.JP』や『Coincheck』を作っていて、自分の実力を鑑みると、リスクというリスクは実は無いだろうと気付き、辞めることにしました。
――『STORYS.JP』『Coincheck』と、取り組んだプロジェクトは幅広いです。
溝部:『STORYS.JP』は、ユーザーが自分の人生のストーリーを投稿するウェブサービスで、『Coincheck』は仮想通貨取引所ですが、実は事業内容にあまり強いこだわりはないんです。世の中の流れを見て、いろいろ挑戦してきました。
――その後、ポケットペアを創業しています。なぜゲーム制作をやってみようと思ったのですか。
溝部:幼い頃からゲームが大好きで、学生時代まではゲーム開発者を目指していたのですが、途中で諦めた経緯があります。新しい事業について考えていた時に、やはりゲーム制作をしてみたいと思いました。そういう意味では、他の事業とは考え方が違うかもしれません。
――それだけゲームに対しては特別な思いがあったのですね。
溝部:そうですね。その時点では勝ち筋が見えていたわけでもないので、戦略的でない選択なのは自覚がありました。
幼い頃からゲームばかり。小5の自由研究も『Visual Basic』の自作ゲームだった
――幼い頃からゲーム好きだったとのことですが、どんな幼少時代だったのですか。
溝部:父親の海外転勤で幼少期をインドネシアで過ごしたのですが、外出できる機会が限られていたため、家でゲームばかりしていました。ファミコンやスーパーファミコンなどの家庭用ゲーム機で遊んでいましたね。通っていた日本人学校が比較的先進的で、当時からパソコンにも触れていました。
――ゲーム開発者を目指したきっかけは何ですか。
溝部:帰国後、小学5年生の夏休みに自由研究で初めてゲームを自作しました。父親から勧められたからです。当時は「ゲーム=子供の遊び」と思われていた時代です。認められるか不安に思いながらも、インターネットで調べて『Visual Basic 6.0』という開発用ソフトでシューティングゲームを作りました。
コードの半分くらいはコピペでしたから、仕組みを完全に理解していたわけではないのですが、フロッピーディスクで提出した時には、先生からすごく驚かれました。賞ももらい、振り返ればこれが、開発者を志すに至った原体験かもしれません。
――では、そこからゲームを制作し始めたのですか。
溝部:いえ、その時は褒められたことで満足してしまい、またゲームでひたすら遊ぶ日々に戻っていきました。
当時は家庭用ゲームに加えて、Vector社がインターネット上で配布していたフリーゲームでも遊ぶようになりました。ここが出していたメジャーなゲームは、ほぼ全て遊び尽くしましたね。
その時は遊ぶだけではなく、設定ファイルやメモリーがどうなっているかも見ていました。この頃にはもう「将来の夢」の欄に「プログラマー」や「開発者」と書いていたと思います。
自分よりも優れた開発者がいる。夢を諦めさせた学生時代の2つの出会い
――大学時代は、進路についてどのように考えていたのでしょう。
溝部:高校卒業後は東京工業大学に進んだのですが、1年目に出会った2人の友人が、その時点でプログラマーとして十分働けるほど優秀だったんです。彼らを見て自分の開発者としての優位性に疑問を持ち、いったん経済を学ぶ方向に変えることにしました。
私がいた工学部第5類からは、通常情報工学科か電気電子工学科に進むのですが、あえて経済学などを学ぶ社会工学科へと進みました。
――しかし、その後、任天堂のゲームセミナーに参加しています。
溝部:そうはいっても、自然にゲームのことを考えている時間は多かったです。将来について改めて自問したところ、ゲームプログラマーとして任天堂で働きたいと思いました。
ゲームが大好きな自分にとって、任天堂は特別な会社です。特に同じ東工大出身の岩田聡さん(元同社代表取締役社長。故人)は憧れの存在で、講演会に行って話し掛けたこともあったくらいです。
――それで、まずはゲームセミナーに参加してみようと考えたのですね。
溝部:そうですね。ただそのためには技術を磨く必要があります。幸運にも、イラストコミュニケーションサービス「pixiv」を運営するピクシブ株式会社でアルバイトとして採用してもらい、そこで実務を学んで、任天堂ゲームセミナーに応募しました。
ゲームセミナーはいわゆるインターンシップのようなもので、期間は1年。最初の半年でゲーム開発の知識や簡単な技術を学び、残りの半年はチームに分かれ、ニンテンドーDSで遊べるゲームを1本作るというものでした。しかしこの時の経験により、私は改めてゲーム開発者の道を諦めることになりました。
――なぜでしょう。
溝部:ピクシブで携わったウェブサービスの開発と、本格的なゲーム開発はまったく別物でした。また、セミナーのメンバーのレベルが段違いに高かったのです。
ウェブサービスの開発は、最初のアイデアやスケール、長期メンテナンスに耐えられる設計であることは非常に重要ですが、アプリケーションエンジニアが書くコード自体は、ゲームほどの複雑性はありません。
一方、ゲームの場合は動きの一つ一つを全てコードで書く必要があります。例えば、A地点からB地点へのボールの移動を表現するとします。まずボールが動く前兆があり、その後徐々に加速し、止まる際も反動で行ったり来たりする。それを表現するには数学的、物理学的知識も求められます。
私も東工大に通っていましたから、基礎的な知識はありましたが、周囲のメンバーは息をするように使いこなしていましたね。また、私はゲームの面白さやシステムに興味があるタイプで、細かな動きについてはさほどこだわりがなく、周囲との大きな違いを感じました。
――優秀なライバルたちを見て、夢を諦めたということでしょうか。
溝部:そういうことです。また、カルチャーの面でもフィットしていなかったように思います。一緒に働いたメンバーや社員の方々は、純粋にゲームが好きという気持ちで開発に身を投じている人ばかりでした。私のように大学1年生の時点で「もっと優秀な人がいるから」と、いったん別の道を選ぶような、ある種打算的な人はいなかったんです。
遠回りしたからこそ今がある。技術とビジネス、両方の観点を持つメリット
――紆余曲折を経て、現在は夢だったゲーム開発者ですが、「自分はゲームプログラマーとしては一流ではないかもしれない」という当初の懸念にはどう対処したのでしょう。
溝部:ポケットペアでの自分の役割は、主にプロデュース兼ディレクションです。私も開発の一部は担っていますが、大部分は私が優れていると思う開発者に作ってもらっています。その中には、任天堂ゲームセミナーで出会った友人も含まれています。
――経営者でもあるご自身のキャリアをどのように捉えていますか。
溝部:自分のベースはエンジニアであることは間違いないです。その上で、ゼロからのサービス立ち上げを繰り返してきた経験が、ゲーム開発にも生きていると感じています。
また、技術とビジネスの両方の観点を持っているからこそ、分かる部分があるとも思っています。技術サイドでは、実務的な開発スケジュールの見積もりなどはもちろんですが、チーム内のエンジニアとリスペクトし合えることは、目に見えにくい大きな利点です。
ビジネスサイドでは、流動的な市場を常に意識してきたからこそ、ゲーム開発においてユニークなモノづくりをすることができているのではないでしょうか。
両者の経験を生かして、ゲーム業界はもちろん、ユーザーの皆さまに楽しんでいただけるようなゲーム作りをこれからもできればと思っています。
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